泉房穂「本人の幸せは本人にしか決められない」 障害がある弟の「満面の笑み」が教えてくれた

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「あんたが弟の分まで(能力を)取ったんだ。あんたがかけっこで一番にならなくていいから、弟を歩かせてよ。あんたはテストで100点を取らんでもええから、弟に字を書かせてよ。あんたが弟の分まで全部取ってしまったんだ」と。

6歳の子どもにとって、これは耐えがたかった。大好きなオカンから責められて、私は自分の体を引きちぎることができるものなら引きちぎって弟に返したい、とさえ思いました。

私は自分なりに努力してきたつもりですが、実際、子どもの頃から勉強も1番、運動も1番。野球大会ではホームラン王、サッカーでは得点王、柔道は市内優勝、ラグビーも県大会優勝時のキャプテン。

ですが、それを自慢したいわけではなくて、そんなふうにできてしまうことが、自分の中では逆に引け目になってしまった。6歳の時、無理心中をし損ねた母から責められたことで、普通に親に甘えることができない子どもになっていたのです。母のことはずっと大好きです。それでも、あの言葉はつらかった。

小学校の頃から、両親には「お父ちゃん、お母ちゃんは先に死ぬから、あんたが2人分稼いで弟の面倒を一生見なさい」と言われ続けていました。「弟の分まで取った能力を、弟に返せ」と大好きな母に責められて、自分の体を引きちぎることができない以上、自分の能力は困っている人のために使わなければいけないと、幼いながら自分の心に誓ったのです。

「足に障害があるなら、養護学校へ行ってください」

もうひとつ、私の人生の節目となる出来事は、弟が小学校に入学する時のこと。

2歳で障害者手帳に「起立不能」と書かれた弟でしたが、両親は諦めなかった。スポ根漫画『巨人の星』の星一徹が息子の飛雄馬の体に装着したようなギプスを弟の体につけたりして、膝小僧を擦りむいて血だらけになるのも構わず、「歩け、歩け」と歩行訓練を続けていました。

私自身は、そんな無茶苦茶な根性論で歩けるようになるんかいなと思っていたけれど、果たして弟は4歳で立ち上がり、5歳でよちよちと歩き出しました。あの瞬間は、家族で抱き合って喜びの涙を流したものです。「6歳の小学校入学に間に合った」と。

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