泉房穂「本人の幸せは本人にしか決められない」 障害がある弟の「満面の笑み」が教えてくれた
そして、父も母も通い、私も通っていた地元の小さな小学校ですが、そこに弟も一緒に通えると思って喜び合ったのも束の間、行政は「足に障害があるのならば、養護学校(今の特別支援学校)へ行ってください」と言い放ちました。
自宅のすぐ目の前に地域の小学校があるのに、電車やバスに乗って、足の悪い弟を遠くの学校に連れて行けという。さすがにうちの両親も私もブチ切れました。必死に努力し、よちよち歩きながら歩けるようになった子どもに対して、「助けましょう」ではなくて、「他人の迷惑にならんように遠くに行け」と言う行政に、私も唖然としました。
「そんなもん、行かせられるわけないやないか!」と、家族で粘り強く嘆願、交渉し、ようやく弟も、私と同じ近所の小学校に入学することが認められましたが、2つの条件をつけられました。
1つは、送り迎えは必ず家族がすること。そして2つ目は、たとえ何があっても行政を訴えたりしないこと。この条件を受け入れると一筆書くことで、弟はようやく私と一緒の小学校への入学を認められたのです。
弟の通学には、家族が毎日送り迎えすること、という条件がつけられましたが、うちは貧乏漁師の家です。父も母も朝の2時半には家を出て漁に行かなければなりません。弟が小学校に入学した年、私は5年生でしたが、弟に付き添って登校するのは私の役目になりました。
学校の人も近所の人も、みんな人柄はいいのだが
私は、弟の教科書をすべて自分のランドセルに押し込み、弟には空っぽのランドセルを背負わせて、周囲の冷たい目を感じながら登校していました。誰も手助けしてくれる人はいません。
正門をくぐった右手にトイレがありましたから、毎朝、弟と2人で「大」の用を足すほうの個室に入って、弟のランドセルに教科書を全部入れ直して、弟を教室まで連れて行き「闘ってこい、頑張れ」と声をかけて送り出しました。毎日戦場に赴くような気持ちでした。なんでこんなに周囲は冷たいんやと、悔しい気持ちでいっぱいでした。
学校の人も近所の人も、みんな人柄はいいのです。みんないい人たちなのです。
ところが、社会全体となると非常に冷たい。ものすごく冷たく高い壁となって、私たち家族の前に立ちはだかっている。これはなんでなんや、と子ども心に思いました。なんで弟や家族はこんな理不尽な思いをせなあかんねん、これほど頑張っても報われないなんて、何かおかしいんやないか、と。
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