許せないことがあれば許せる範囲で向き合う
対話とは、理解不能な「やつら」が相手であっても、そこに共通の言葉を見いだし、わかりあえる範囲内で理解と納得を成立させるコミュニケーションである。そうすることで、理解不能な「やつら」とも、限定的ではあるが「わたし」と「あなた」の関係が構築できるのだ。
特定の個人や社会集団を「やつら」としてとらえるかぎり、そこから創造的なものは何も生まれない。そこにあるのは無視、嘲笑、憤怒、あるいは排撃。対話は決して成立しないのである。
最近、世界中で世相に不安が蔓延しているためか、特定の社会集団を「やつら」として排撃する事例が目立っている。ノルウェーのテロ事件や英国の暴動の背景には、「やつら」の問題があるのだ。
最近の日本での、政治家を「無能なやつら」、世間に迷惑をかけた企業を「極悪なやつら」と割り切る風潮は、虚無的でやりきれない。弱者に対する同情が、容易に攻撃に転じるのも醜悪である。窮状に同情して義援金を出したが、その金でのうのうと飲酒やパチンコをするのは絶対に許せない──情けを受けたら分をわきまえろ、ということか。特定の集団に属すると、ごく普通の生活も許されないらしい。
「絶対に許せない」と思うのは大いにけっこうである。肝心なのは、絶対に許せない相手でも、「やつら」として排撃せず、「あなた」として向き合えるかどうかなのだ。
日本教育大学院大学客員教授■1966年生まれ。早大法学部卒、外務省入省。在フィンランド大使館に8年間勤務し退官。英、仏、中国、フィンランド、スウェーデン、エストニア語に堪能。日本やフィンランドなど各国の教科書制作に携わる。近著は『不都合な相手と話す技術』(小社刊)。(写真:吉野純治)
(週刊東洋経済2011年9月3日号)
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