驚くべきは、A国人の同僚の対話的態度である。本人にとっての最善の解決策(猫を安楽死させる)が不可能とわかれば、次善の解決策(猫を快適に移動させる)を目指して協働する。しかも、「人として許せない部分」について、友人とは最後までわかりあえないまま、粛々と協働作業を進めているのだ。
友人の考えに対して、中途半端に理解を示していないところもよい。自分にとって絶対に許せない考えについて、真摯に「受け止める」必要はあるが、何でも寛大に「受け入れる」必要はないのだ。相手の「わかりあえない部分」は仕方のないものとして留保し、残った「わかりあえる部分」で最低限の人間関係を維持できるかどうか。これが対話的態度の基盤となるのである。
この猫をめぐる騒動において、友人は「安楽死」という言葉を聞いた瞬間、同僚のことが理解不能の怪物に見えたという。もはや、わかりあえる「あなた」ではない。わかりあいたくもない「やつら」へと変じたというのだ。
一方、同僚は何があっても「わたし」と「あなた」の関係を維持した。いや、動物虐待ということで、友人に対してそうとうに腹を立てていたらしいから、内心では「やつら」と思いながらも、最低限の人間関係を対話的に維持したのかもしれない。
同僚の対話的態度のかいあってか、友人と同僚との人間関係は、今でも海を越えて続いているという。
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