「宮藤官九郎作品は不適切」と言う人に欠けた視点 「ホモソーシャル作家」という評価は正しくない
『木更津~』も、余命が延びたぶっさんが「ペース配分ってもんがあんだよ!」と憤るなど、決して大真面目だったわけではない印象だ。
特に最終回で、病院に運ばれたぶっさんを登場人物が囲む大団円のシーンは、死が間近に迫る悲しいシーンのはずが、笑いの入り交じった名シーンとなっている。
その絶妙なバランスは、宮藤官九郎の卓越した才能を感じさせるものであり、その後の作品での死の描き方にも通じるものである。
年齢とともに死との距離感が近くなり、真面目な感じを回避したくなってくる――。
『木更津~』の放送当時、31歳。死が身近ではない感覚を持っていた作家も、53歳になり、実娘も『不適切にもほどがある!』で河合優実が演じた純子と同世代だ。
『不適切~』では阿部サダヲ演じる主人公・小川市郎と娘の純子が阪神・淡路大震災で死ぬ運命が描かれる。「俺はいいんだ。別に、いつ死んでも、だが純子は……まさか26でなあ」といった市郎のセリフには、自分も歳を重ね、娘も成長したことで、また変化した死への距離感が反映されているのかもしれない。
「文化祭」がキーワード?
話を『木更津キャッツアイ』に戻すと、そこで描かれるのは高校を卒業し、20歳を過ぎた5人の男たちによる日常である。それは、みずみずしく楽しそうな日々だ。
筆者は当時高校1年生でこのドラマを見ていたが、高校を卒業したら青春が終わるものだと信じ、恐怖に近い感情を抱いていた。それゆえ、世間的には大人と呼ばれる年齢になっても仲間と集い、決して企業社会の中で必死に働くでもなく、青春の延長戦のような日々を送る彼らの姿に大きな希望をもらった。
同じ筆者によるインタビューで宮藤は「青春は青春として置いていくものだ、っていう発想がない」と語っていた。
その理由を「会社勤めしたことがある人は、社会に出ることで、青春を置いていくっていうことを経験するんだと思うんですよね。でも俺社会に出てないんで」と分析。さらに「今でも文化祭のロケに行ったりすると、『俺だったらこんな出し物やるな……』とか考えるんですよ(笑)。(中略)俺の中で文化祭が終わってない感じなんです」(同上)と加えている。
“文化祭が終わってない”というのは宮藤官九郎作品を、そしてとりわけ『木更津キャッツアイ』を考えるうえではキーワードになるだろう。
宮藤が脚本に加え監督も務めた映画『中学生円山』(2013年)の「考えない大人になるくらいなら、死ぬまで中学生でいるべきだ」というせりふを踏まえるならば、宮藤官九郎は、社会に出て考えなくなってしまった大人ではなく、今でも文化祭をどう楽しくするか思考をめぐらせてしまう“考える中学生”なのかもしれない。
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