佐藤:20世紀後半のアメリカ文化は、このような覇権的文化の代表格でしょう。「多をもって一となす」というモットーのとおり、同国は「すべての偶然性がここに収斂するのだから、アメリカこそが普遍だ」とする姿勢を取った。そして政治的・経済的・軍事的な覇権に支えられ、この姿勢に相当な説得力を持たせることに成功したのです。
くだんの傾向をいっそう強めるのが、国境を越えた経済活動の高まり。経済を動かすのは「貨幣」という数字ですが、これは言語よりも普遍性が高い。なにせ為替によって、通約可能性が保証されているのです。けれども文化は、よくも悪くも経済を基盤にしなければ成立しえません。
要するに九鬼周造の議論は、狭義の哲学に視野を限定しないかぎり破綻を運命づけられたものであり、したがって国際主義の可能性どころか、その不可能性を浮き彫りにしているのではないかと思います。
九鬼の議論に見られる転換
古川:重要なご指摘をありがとうございます。私の見方では、実は1930年の『「いき」の構造』と、1935年の『偶然性の問題』とでは、「必然性と偶然性」や「一般と個別」「部分と全体」の関係の捉え方が大きく転換しています。この点についての説明を今回の報告では割愛したので、かえって混乱させてしまったかもしれません。
簡単に言えば、『「いき」の構造』の時点では、いわば完全な個別主義で、相互に異なる個別と個別との間にいっさいの連絡はないかのように考えられていました。しかし、『偶然性の問題』では、根底のところで普遍的なものにつながっているという見方が強くなってきます。今回取り上げた講演「日本的性格について」は、1937年のものですから、この見方に基づいています。ですから、まさに佐藤さんのご指摘のとおり、完全な個別主義ではなく、むしろ個別的なものを通路とする普遍的なもののほうが、より前景に出てきています。
私は大学院生の頃に、九鬼の偶然論をベースにして「宗教的多元主義」について考える論文を書いたことがあります。若かりし頃の雑な論文なので今となっては葬りたい過去なのですが(笑)、そこで宗教の多元性について、対立する2つの考え方があることを論じました。
寓意的に言うと、1つは、「神は多くの名前を持つ」という考え方です。キリスト教では「神」と呼ばれている普遍的な唯一の実在が、さまざまな宗教で異なる名前で呼ばれている。これは単純なイデア論で、文化や宗教によって語られ方は異なるけれども、どれも同じ「共通の本質」を持っていると考える普遍主義です。
他方、これを批判する人は、神は多くの名前「を持つ」のではなく、多くの名前「である」と言います。普遍的な実在の構造そのものが多元的なのであって、それぞれの宗教は、それぞれの仕方で、何らか普遍的なものを現している。しかし、それはあくまで個別具体的であり、相互に通約できない。個別的なものの具体性を捨象し、「共通の本質」だけを抽象して、それを普遍性だと称するのはおかしい、というのです。