施:それで、今のお話を聞いて、言語を例に取ると理解しやすいかもしれないと感じました。つまり、わたしたち日本人は、世界を認識するためには母語である日本語を通じてでなければ、より深く理解することは難しいと思うんですよね。外国語を一所懸命勉強すれば、ある程度使えるようにはなるでしょうが、皮膚感覚まで理解するためにはやはり母語が必要です。ですから、われわれの認識の道具でもある日本語を徹底的に洗練しなければ、よりよい認識にはたどり着けないと思うんですね。
しかし、いかなる言語も所詮一つの角度からの眺めでしかないということも事実です。どの言語もその言語の持つ世界観は非常に限定されているため、私たちは日本語を洗練し充実させると同時に、その限界や偏りも認識しなければなりません。
だから、カントやポパーが言ったような一種の統制的理念として、客観的世界の完全な把握は絶対にできるものではないけれども、いわば、あこがれてというか、まさに媚態を発揮して他の文化や言語から学ぶ。だけど、自分の限界もよく知っている、つまり、まさに諦めも知っていて、ある種、ジタバタしていくしかない存在というのが人間なんだろうなと思うんですね。
そういう意味で、よりよき認識にたどり着くためには、やはり私はネーションにこだわりたい。もっと具体的に言ったら、ナショナルな言語にやっぱりこだわる。それは他の国々も同様だと思うんですね。ですから、世界のさまざまな国々の人びとが自分のネーションにこだわり、その文化や言語を洗練する一方で、他の文化や言語からも積極的に学ぶという姿勢を持つ。これが真の国際主義の実現につながるのではないでしょうか。
日本語を豊かにすることへのこだわり
古川:まったく同感です。特に、他の言語や文化から学ぶことで自国の言語や文化を豊かにしていくというのは、それこそまさに九鬼が実践したことです。「実存」や「被投」「投企」など、現代の哲学用語の多くは、九鬼が作ったものです。それぞれの哲学の概念について、どういう日本語が訳語としてふさわしいかを慎重に考えて、他の哲学者と論争もしています。西洋の言葉をそのまま片仮名で使うのではなくて、日本語化することに非常にこだわったわけです。
なぜかというと、それによって、日本語の語彙が増え、日本語が豊かになるからでしょう。語彙が増えて豊かになるということは、それだけ日本人が日本語で認識する世界が豊かになるということです。もっと言えば、そこまでいかなければ本当の意味で他の文化から何かを「学んだ」ということにはならないと考えていたのではないかと思います。
第1回の記事でもお話ししたように、九鬼は「外来語所感」というエッセイで、外来語を翻訳する努力をせずに片仮名で済ませてしまう風潮を激しく批難しています。これも、国粋主義的な外国語排斥のように思われがちですが、けっしてそうではないと思いますね。