暦本:自然はどんなに美しくてもアートではないからね。自然は自然であって、その美しさが解釈されないとアートにはならない。
落合:そうですね。いったん人間という変換器があいだに入ることで自然がアートになる。ただ日本人は、限りなく自然に近いけど自然じゃないものをアートにしようと頑張ってきたんですけどね。たとえば「庭」とか。
庭は、自然をいったん分解して再構築したものだから、本来の自然とは違います。でも、そこに本来の自然に通じる心を感じ取る。里山もそう。里山を見て「自然は美しい」と感じる人が多いけど、あれは人工改変された自然の代表みたいなものですよね。
暦本:枯山水(かれさんすい)はどうですか?
落合:枯山水ぐらいまで抽象化すると、微分仏に近づいちゃう。風景を微分し始めると、枯山水に行き着くかもしれない。
自然を不自然に置くことがアート
暦本:微分積分のことはともかく(笑)、たしかに日本文化は「市中の山居」とも呼ばれるように風景を美意識に基づいて分解して再構築するから、自然じゃないけど自然を感じるようなエッセンスがいろんなところにありますよね。
「寂隠」の竹の柱も、節と節の間隔をわざわざ上と下で違えているんだけど、それが生き物の成長を暗示していたりする。
落合:室内はけっこう人工的だけど、外の庭と通ずるところにあたかも自然であるかのように石を置いたりしていますよね。
こうすると外と地続きの自然に見えるけど、ここに石があること自体がものすごく不自然。自然を不自然に置くことでアートになっているんだけど、構成要素はほぼ自然物なんですよ。
暦本:京都は、目に入るものほとんどすべてが人工物ですからね。どれもみんな、べらぼうに人の手がかかっている。「自然が感じられていいね」と思われがちだけど、お寺にしても何にしても、自然を巧みに再構成したものを見せているんです。
それがヴェルサイユ宮殿みたいにあからさまな人工物じゃないのが、日本の良いところ。人工物だとは気がつかなくて、「これって自然に生えているんでしょ?」みたいな感覚があるじゃないですか。
お茶室の花でも、フッと摘んできてパッと活けるのがいちばんいい。「フッと摘んでくる」というこの美意識自体がめちゃめちゃ人工的ではあるんですけど、そのへんの野の花みたいに見せるのが究極の芸術なので。
ダミアン・ハーストの描く桜みたいなアートは、「おれがつくった桜」という本人の体臭がキツすぎて、日本の室内には飾れないでしょ。美術館ならいいんだけど、日常生活にはなじまない。