震災パニックという「暴落相場」で得た5つの教訓 凄まじいまでの「投げ売り相場」でやるべきこと
金曜日はまだしも、せめて月曜日に逃げられなかったのか。なぜ火曜日にも多くの人が投げ売ったのか。多くの投資家同様、私も月曜日には逃げられなかった。
震災当日の11日、たまたま代休を取っており、自宅で株価を見ていた。
運命の14時46分18秒。積んであるペットボトルの入ったダンボールが落ちてきた。それが植木鉢に当たり一面が水浸しになる。
溜まっていたはずの風呂桶の水は半分以上が外へあふれていた。とてもチャートを見られる状況ではなく、倒れた植木鉢を起こし、本棚の倒壊を防いでいるうちに大引けになっていた。
翌12日、この日は土曜日だったので、市場はもちろん開いていない。携帯電話が鳴り、祖父が逝ったとの一報が入った。茨城県も震度6を記録したのだが、祖父の死因は地震とは関係のない老衰だった。数え年で100歳の大往生だ。実家のある茨城県・土浦を目指した。
目指したはいいものの、交通は寸断されていた。茨城県の最南端である取手までしか行けない。
取手から土浦まではまだ30キロ以上ある。仕方がないので、この日は引き返した。翌日も状況は似たようなものだった。
この日はルートを変え、つくば駅からバスを乗り継いで実家を目指したが、バスに乗ると国道は大渋滞だった。倒壊した家屋などを横目に、どうにかたどり着くことができた。14日の月曜日、火葬場には自分たち以外、誰もいなかった。
「ざっと1000万円以上」が吹き飛んだ
携帯電話は生きていたが、証券会社のホームページには接続できない。かろうじて株価だけはヤフーファイナンスで確認できたが、「ざっと1000万円以上が吹き飛んでいるな」と確認できただけだった。決済したくとも、市内のインターネットカフェはすべて休業だった。
なぜ月曜日に損切りできなかったのか。多分、私と同じような状況だった人が多かったからだろう。私などはまだ良いほうで、ライフラインの確保に精一杯だった人も多かったはずだ。
もしも取引が可能な環境であっても、ストップ安に張りついた状況を見れば、恐れをなして、「明日になれば」とあらぬ期待を持ってしまった人もいたと思う。実際に火曜日になってみると、今度は原子力発電所の問題が噴出し、さらに状況は悪化した。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら