ところが、「あなたは××裁判の陪審員に選ばれました」という通告が来ると、彼らは裁判所にはせ参じて、「お勤め」を果たさねばならない。それは社会の安寧を保つための市民の義務であり、なおかつ裁判官などの「専門家」にすべてを委ねてしまうことなく、正義と不正義を自分たちの常識の範囲内にとどめておくための方策なのである。
この映画が作られた1957年においては、アメリカ社会の中にそういう伝統は健在であった。おそらくは19世紀に、フランス人貴族のアレクシ・ド・トクヴィルが見聞した『アメリカン・デモクラシー』が描いた通りだった。そして当時のアメリカは、自由主義社会におけるヒーローであった。「この国が強い理由」はそこにあった。
アメリカ社会の「分断」がますます深刻化する懸念
その点で今回の結果はどうだったのだろう。マンハッタン地区で選ばれた陪審員たちは、収入が高い専門職が多く、「頭のいい、リベラルな人たち」が多かったことだろう。たぶん「平均的」なアメリカ人ではない。そんな彼らが全会一致で、わずか2日間の審理ですべての罪状に対する「有罪」を決定した。
トランプ支持者たちにとっては、「自分たちから遠いところで正義が決められた」屈辱的な瞬間となったのではないだろうか。おそらくこの裁判は、大統領選挙の結果に対してあまり影響しないだろう。
むしろアメリカ社会の「分断」は、この裁判によってますます深刻化するのではないかと思われて仕方がない(本編はここで終了です。次ページは競馬好きの筆者が週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)。
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