12人の陪審員のバックグラウンドに関しては、報道が過熱気味となっていた。本来は完全匿名で行われるべきところ、内訳が「男性7人、女性5人」であるとか、本職の弁護士が2人含まれているとか、「陪審員長はアイルランド移民の営業職」であるとか、トランプさんのSNSフォロワーが含まれているといったことまで、幅広く報道されていた。
それにしても、わずか2日間で12人の陪審員による意見の完全一致を見たのは、いかなるマジックがあったのか。おそらくは弁護団の作戦ミスだったのであろう。「トランプさんはダニエルズさんと事に及んだわけではなく、支払われた13万ドルは完全に合法的な弁護士費用であった」というストーリーは、さすがに受け入れてもらえなかったようである。
ダニエルズさんの法廷証言によれば、事に及んだ際にトランプさんは彼女に対し、「アダルト・ビジネスでは、男優と女優の取り分はどうなっているのか?」などと尋ねたのだそうだ。いやもう、あまりにもトランプさんらしくて、これが作り話であるとは誰も思えなかったのではないだろうか。
そのうえ、トランプさんは公判中にさまざまな不規則発言を発して、裁判官や検察官、証人や陪審員を侮辱している。こんな風に心証を害してしまうと、弁護側も納得したうえで選ばれた「党派色がないはず」の12人の陪審員が、「瞬殺」で有罪を宣告してしまった。限りなく「自業自得」だったんじゃないだろうか。
日米での「正義」についてのギャップはかくも違う
さて、陪審員制度というと、思い浮かぶのは映画『十二人の怒れる男』(Twelve Angry Men)である。1957年のこの映画は、今見るとどうにも古臭い。モノクロであるし、喫煙シーンが多いし、そもそも登場人物は全員白人男性である。それでも「正義とは何か」についての日米のギャップ(隔たり)を知る際に、この映画は素晴らしいテキストではないかと思う。
この映画の陪審員が扱うのは、18歳の少年がナイフで父親を刺した、という単純な殺人事件である。暑い夏の日の密室に12人が集められ、審理が始まる。中には「早く終わらせて、ヤンキースの試合を見に行きたい」という不埒な者もいる。1回目の評決の結果は、有罪11人に対して無罪が1人だけであった。
「やれやれ」という感じで審理は続く。検察の証拠に疑いを抱く第8番陪審員(ヘンリー・フォンダ)は、粘り強く議論を続けていく。やがて他の陪審員たちも少しずつ心を動かされ、「無罪」に転じていく。
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