「東大」の地位を脅かす「幻の移転案」その顛末 戦前の「東大一極集中」は東京にあったから?
実のところ東大側は、過密解消を目的とした移転には反対であり、全面移転も考えていなかった。
田中の前のめりは、用地に絡む思惑もあったのかもしれないが、東大移転が田中自身の提唱する「列島改造論」的構想の一部であることが大きい。
構想の背景に「日本列島改造論」
のちに刊行される『日本列島改造論』は、大都市の大学が「名声と人材」を集める一方で地方大学が停滞していること、東京への大学集中が人口集中の一因であることを指摘した。
そこで、東京の大学を「地方の環境のよい都市」に分散するとともに、まったく新しい「学園都市」も建設する。
田中は、最新学術情報へのアクセス環境、教授が長く定着できる居住環境などを整備すれば、地方小都市であっても「世界的な水準の教育の場」になりうると説いた。
同時に、現在の地方大学を「特色のある大学」に変える必要もある。その地方大学でしか研究できない分野があれば、研究者や学生はイヤでも東京を離れて地方に移らざるを得ない。
太平洋ベルト地帯の大都市に集中した産業と人口を地方に分散させ、高速道路・高速鉄道のネットワークでつなぐ「列島改造論」そのままの大学改革論である。
1985年、脳梗塞で倒れる7日前のインタビューでも、田中はかつての東大移転論を蒸し返した(この時は「富士山の麓はうるさいから、赤城山麓でもいい」と発言)。
本郷の跡地を医療センターにする案も以前と同じで、「そのときになれば全部テレビで脳外科の手術ができるようになります」とも語っている。本人の前途を考えても含蓄(がんちく)のある発言である。
田中の東大移転論は、大学の自治が重んじられる時代には実現困難である。当時の文部省も東大当局も、移転には東大側の自主的な立場、自主的な拡充計画が不可欠と考えていた。
だが、もし今後東京で巨大災害が発生するなどして、停滞した首都機能移転論が再び盛り上がれば、東大はどうなるだろうか、という想像を喚起する話ではある。
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