「東大」の地位を脅かす「幻の移転案」その顛末 戦前の「東大一極集中」は東京にあったから?
「伯林(ベルリン)に伯林大学の光があり、巴里(パリ)にソルボーン(ソルボンヌ)の光が輝く如く、東京に東京帝国大学の光が無ければならない」と移転反対者はいう。
なにより、東大が郊外に去った隙をついて私学が躍進する懸念があった。裏を返せば、東大に打撃を与えようと思うならば、まず東京都心から引き離すのが有力策になりうる、ということでもある。
田中角栄の"東大移転論"
東大の地位を脅かしかねない都心からの移転案は、高度経済成長期にも浮上した。
戦後の東大移転案というと、70年代後半に登場した米軍立川基地跡地への理系学部などの移転案(頓挫)が知られるが、それ以前に田中角栄が主唱していたことは意外に忘れられた事実である。
池田勇人内閣で大蔵大臣を務めていた田中は、1964年の参議院大蔵委員会で、「東京や大阪にある大学」を「理想的な環境」に移転させるアイディアを語った。
「大蔵省の諸君は大体東大の出身者ですから、自分たちの学校を移そうなんていう気にならぬ」ので田中が独自試算し、東大移転に最低600億円、世界的な大学にするためには1000億円かかるとの見方を示した。この年設置される国立学校特別会計を推進する理由の中で述べられたものである。
田中の東大移転案は新聞各紙で報道されたが、大蔵・文部の事務当局は、予算が膨大な上に東大側が移転を望んでいないとして打ち消しにかかった。
だが田中は手を緩めず、東京の過密解消のための中央省庁移転を検討する内閣の方針に乗じて、東大などの地方移転をぶち上げ、具体案を検討することが閣議で了承される。
翌1965年、佐藤栄作内閣でも蔵相に留任した田中は、学校の地方移転に国からの借入金を認める国立学校特別会計法改正案の国会提出の際、記者会見で「東京大学移転の機が熟した」と語った。
田中は、大河内一男東大総長が文部大臣を訪ねて移転賛成の意思を示したこと(愛知揆一文相は「“移転のムード”だけはできた」と発言)、すでに山梨県では富士山の裾野3300万平方メートルに東大を誘致する動きがあることを示し、本郷は医学部だけ残して総合医療センターにするべき、などと語った。
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