アドラー『嫌われる勇気』で生じた2つの「誤解」 「トラウマは存在しない」説と「課題の分離」

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日本には、「みんなと同じでなければならない」という足並みをそろえることを求められがちな同調圧力が強く、また、「みんなに好かれたい」「嫌われたくない」という承認欲求が強い傾向もあります。

そこに、「嫌われる自由がある」という言葉が刺さったところがあるのではないでしょうか。

ただ、困ったこともあります。

アドラーの名を聞くと、とたんに「トラウマは、存在しない」説と「課題の分離」が初学者から出てくることです。

結論からすれば、この2つは、アドラー心理学のとらえ方として不十分なのです。

トラウマは「ある」

たしかに、アドラーの本には、このように書かれています。

「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック―いわゆるトラウマ―に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」

ただこの文脈は、経験の一例として「いわゆるトラウマ」と書いているのです。これは、「どんなことを経験しようとも、その経験だけで自分の未来は決まらない」ということです。

例えば、親から虐待を受けた経験のあるすべての人が、非行に走ったり人生が苦しいだけのものになるわけではありません。親から虐待を受けたからこそ、自分の子どもには虐待しないと固く決心し実行する人や、虐待を防止する活動をする人だっています。

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