1555(天文24)年10月1日の厳島の戦いでは、毛利元就(もとなり)が奇襲攻撃を仕掛けて、陶晴賢(すえはるかた)が率いる約5倍の軍勢に勝利しました。数の上では圧倒的に有利だったはずの陶軍はまともに応戦できず、その日のうちに陶晴賢は自害したのです。
元就は、息子たちに一族の結束の重要性を「三本の矢」に例えて説いたことなど、知将として知られています。
その元就が厳島の戦いに勝利できた背景には、荒天をも味方につけた知略がありました。
毛利元就VS陶晴賢
戦いの舞台は嚴島神社で有名な、広島県の厳島です。最前線となった毛利軍のお城は、宮島港のすぐ近く、要害山(ようがいさん)にある宮尾城(みやのおじょう)。
標高は約30メートルしかないものの、周辺は急峻で攻めにくいお城でした。また、現在は埋め立てられていますが、当時はもっと海に近くて、水軍の城でもありました。
厳島の戦いからさかのぼること4年、1551(天文20)年に陶晴賢(当時は陶隆房・すえたかふさ)は、主君の大内義隆に謀反を起こして、自害に追いこみました。大寧寺(たいねいじ)の変といわれるこの事件後、陶晴賢は大内義長(大友晴英)を擁立し、大内氏の実権を握ります。
大内氏に仕えていた元就は、大寧寺の変の後も陶晴賢と通じて勢力を拡大しましたが、次第に両者は対立しました。
今よりずっと水運が重要だった当時、水上交通の要衝だった厳島はお互いに抑えたい場所でした。
さらに、軍略に優れた元就は、狭い厳島であれば少ない軍勢でも勝機があるかもしれないと考えます。
元就は厳島を占拠して宮尾城を改修し、陶晴賢から元就に寝返った武将を置いて、挑発。ほかにも偽の噂を流したり書状を送ったり、陶晴賢を厳島におびき出す計略を巡らせたそうです。
そして1555(天文24)年9月21日、陶晴賢は約2万人の軍勢を率いて厳島に上陸し、宮尾城に攻め入りました。このとき毛利元就は不在でしたが、宮尾城を守っていた毛利軍は300〜500人ほどだったといわれています。
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