陶軍約2万人に対して、毛利軍はその後の援軍を含めて約4000人。
両軍の人数については諸説あるものの、圧倒的な差があったことには変わりありません。幸いにもこのとき宮尾城の落城は免れましたが、毛利軍がこの「差」を覆すには、奇襲するしかないと考えたのではないでしょうか。
奇襲前夜、台風襲来か
奇襲(10月1日)の前夜である9月30日、いよいよ毛利元就率いる毛利軍が厳島に渡ろうとすると、雨の降り方が強まってきました。雨だけでなく風も強く吹き、雷が轟き、大荒れの天気となったようです。
この時期の雨というと、秋雨前線ということも考えられますが、嵐のような様子だったのであれば、台風が接近していたのではないでしょうか。
厳島の戦いがあった日は、新暦で1555年10月16日です。今使われている平年値では、7月から10月にかけてが日本への台風の接近数や上陸数が多い時期です。
例えば、2004(平成16)年に100人近い死者を出した台風23号、2017(平成29)年に「超大型」で静岡県に上陸した台風21号、2019(令和元)年に長野県の千曲川(ちくまがわ)が決壊した「令和元年東日本台風」は、10月に日本に大きな被害をもたらしました。10 月の台風襲来は十分にあり得る話です。
厳島の戦いに話を戻します。9月30日の夜、毛利軍は厳島に上陸しました。暴風雨によって視界が悪く、渡航は大変だったはずですが、敵に気づかれにくかったのは元就にとってラッキーです。
一方の陶晴賢は、こんな大荒れの天気の中、毛利軍が攻めてくることはないだろうと思っていたのでしょう。
いよいよ10月1日、毛利本軍と小早川隆景(こばやかわたかかげ)が率いる別働隊が陶軍の本陣を挟み撃ちにしました。海では、毛利が味方につけた村上海賊(水軍)が陶水軍を攻撃して、船を焼き払います。
すっかり油断していた陶軍は驚きました。
『棚守房顕覚書(たなもりふさあきおぼえがき)』には、「陶、弘中ハ一矢モ射ズ、西山ヲサシテ引キ退ル」と、総崩れの様子が書かれています。狭い島内では陶軍のような大軍は動きづらく、混乱状態に陥りました。
形勢が不利になった陶晴賢は係留していた船で逃げることを考えて、島の西の大江浦(おおえのうら)という港に向かいます。しかし、船はそこにはありませんでした。村上海賊によって、あるいは暴風雨で破壊されてしまったのでしょうか。
追いこまれた陶晴賢は自害しました。勝利した元就はさらに勢力を拡大し、中国地方一の戦国大名になっていきます。
一方、陶晴賢は自害、大内氏は急速に衰退しました。のちに大内義長は自害させられ、大内氏は滅亡します。厳島の戦いが、それぞれの明暗を分けたといっても過言ではありません。
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