この日は細胞壁の話がでてきたので、医学部の入試によく出題される原核生物、大腸菌の話題に説明を発展させた。大腸菌は植物ではなく真正細菌の一種だが、体のまわりが細胞壁で囲まれている。ただし植物細胞とは異なり、大腸菌の細胞壁はセルロースではなくペプチドグリカンという物質で構成されているなど、詳細に板書を交え説明したのである。
高校の教科書や参考書には詳しく記述されていない内容なので、さすがにこれは書き写すだろうと思い彼のほうを見やると、急しく板書を書き留めるのではなく、ノートに1~2行、何ごとかを書いているようだ。
講義終了後、思い切って尋ねてみた。「講義中あまり真剣にノートを取っていないようだが、何か私の板書の内容に不満でもあるのだろうか」。すると、意外な答えが返ってきたのである。
「ノートに覚えさせてもしょうがない」
「先生の板書を写し、家に持ち帰り、復習することは大切だと思います。ただ、ノートにすべてを書き写すことが重要だとは思いません。生物の知識をひたすら書き留め、ノートに覚えさせてもしようがありません。
だから僕は、講義で聞いた内容で論点となりうるポイントや疑問点のみをノートに自分なりの言葉でまとめるようにしているのです。今日の講義で言えば、大腸菌の細胞壁に関する話に興味がわきました」
半分納得、半分不可思議という感覚で、少し首をかしげながら、私は彼のノートの中をちらっとのぞいてみた。すると、私の書いた全板書量の20分の1程度の筆記量で、私の板書の骨組みだけをまとめたのか、落書きのような図解が記されていた。
そして、大腸菌の細胞壁の項目のところに大きなQマークが記され、その後ろに数行次のように書き留められていた。
Q 大腸菌は植物でもないのに何故細胞壁を持つのか?
細胞壁は大腸菌の生存にとりどのような意義があるのか?
これにはたまげた。この疑問は超ド級である。何故なら、まさに私が将来医学部の入試に出題されると考えていた質問だったからだ。おそらく、いつか問われることだろう。
もし、大腸菌が外側の細胞壁を欠き細胞膜だけの構造ならば、蒸留水などの低張液中では不利益を被るはずだ。蒸留水は濃度がゼロである。一方、菌体内の糖などの濃度は濃いため、外から水が侵入してパンパンに膨れ上がり、破裂してしまうことだろう。これでは自然界では長生きできまい。
生物とは不思議な存在である。自分の生存に都合のいいように体の作りを変えていくのである。大腸菌もその例にもれないであろう。
医学部受験対応の講義では、基本的に合格のために必要で重要な事項が話されているはずだ。ただ、話され板書されるすべてが同じ比重で重要なのではない。それを鋭い嗅覚で必要、不要に峻別すること、この能力はかなり高度なものである。
そしてこの能力は、受験生ならぜひとも身につけたい能力、武器の一つである。誰に教えられたのか、それとも自分で気づいたのか、彼はまさにそれを実践していたのである。
ちなみにこの彼、その後難関私立医学部に苦もなく進学して行った。
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