日本に足りないのは「ローカル」エリートだ! グローバル「以前」の"エリート"の条件

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ニックと話をしていて感じるのは、自分の国の問題とその複雑さをとてもよく理解していること、そしてその問題に対する当事者意識の高さだ。出会ってすぐの頃、ニックから聞いた言葉が印象的だった。

「僕は、南アフリカの中では本当に恵まれた環境にいた。幸運だったと思う。南アフリカでいい教育を受けた人の多くは、よりよい収入を求めて国外に出て、いつの間にか故郷を忘れ、時にはさげすむ人もいる。でも、今の僕がいるのは、間違いなく南アフリカのおかげ。これだけいい環境で教育を受けている。語学が得意だから、いろんな国のいろんな情報を知ることができる。南アフリカには僕にしかできないことがあるはずなんだ」

近代化の中の高級官僚の卵たちに思いを馳せると……

ここから思い出したのが、芦沢光治良が自身の経験を基に書いた小説『人間の運命』(新潮社 1962~68年)の第一部四巻に出てくる昭和初期の高級官僚の卵たちが、内閣府で高等文官試験の合格証明書を受け取る際の一幕だ。

「小石を敷き詰めた内庭の一隅に、一高の仏法の同窓生で、文官試験の外交科や行政科に合格した者が固まっていて、次郎の方へ手を挙げて合図した。(中略)仏法の仲間のうち最も野心家で、薩摩の出身の伊東が、外交科に合格していたが、仲間に向かって権威のある調子で言った。『みんな、見ておけよ。此奴等が日本の将来を背負って立つんだからな。俺達はみんな日本のために、協力していこうよ』この柔道選手だった伊東の言葉は、その場では、きざにも不調和にも聞こえなかった。誰もが合格書を握って、日本の将来を託されたように、自信と感激をもって出て来たからであろう」

当時の日本は、近代化の波の中で己の道をどう歩むべきか、理想と現実の狭間で揺れている時期である。高等教育はごく一部の選ばれた者しか受けられず、教育と選抜を繰り返し受け、高級文官になった彼らの一挙手一投足で、次の日本の一歩が決まると言っても過言ではなかった。当時の彼らに学ぶ目的など聞くまでもないだろう。

ニックの話や上記の一幕からエリートが持つ意識について考えてみると、ポイントは次の3つだ。「選抜意識」「当事者意識」、そして「問題意識」である。そして、これらは互いに作用し合う。

“選ばれた者”としての自覚

まず、「選抜意識」について考える。これは、高等教育が限られた者にしか与えられない状況で生じることが多い。南アフリカの現状については後で書くが、教育が大衆化した現在の日本には生じにくいだろう。教育の大衆化は、多くの人に機会を与えているという意味で、胸を張るべき現状でもある。ニックは「自分は幸運で、環境に恵まれていた」と言ったが、たとえば東大にも、大学合格後、この感覚を持った学生はあまりいないだろう。

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