本連載ではこれまで、ケンブリッジとオックスフォードへの、合わせて4年半ほどの留学経験を基に、英国流の「知」を紹介してきた。今回は少し目先を変えて、日本の「知」、特に教育政策が抱える問題に切り込んでいく。最近、しばしば話題になる大学入試改革を中心に話を進めていこう。
身近であるほど「わかりやすさ」が要求される
専門知識がないと理解できない科学技術政策などと違い、教育政策は国民全体に関係するうえ、身近に感じやすい政策だ。たとえば「ゆとり教育」に関して意見を述べてくれと言われれば、誰もが何かしらの意見を出すことができるだろう。
自分のことで恐縮だが、私は今、地元の鹿児島を拠点に教育関連の仕事をしている。この進路は自分が社会に対して何をできるか考えた結果でもあり、成り行きに任せた結果でもある。思うに、時代をつくるのも社会をつくるのも「人」であり、その人を育てる教育は、今後の社会・時代の根幹に影響を与えうる数少ない行為である。少し青臭いが、私はそう考えているのだ。このような感覚は、「社会の状況を改善するためには教育を変えなければならない」という過度な期待感をはらみながらも、一般に広く共有されているのではないだろうか。
こうした性質から、とかく教育に関連する議論は、「わかりやすく、一般的で合意形成がしやすい言葉」で行われ、議論の場で出てきた意見は大きな力を持つ。一方で、その影響力はあまりに大きい。状況を見誤りながら教育政策を進めると、社会、そして何よりその教育を受けた子供たちの人生に、思わぬ影響を与えてしまうことになる。
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