日本の大学入試改革は、なぜ迷走するのか 具体性のない「マジックワード」は危ない

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その後、経済の発展とともに日本の教育は称賛され、世界に胸を張れるものとなった(第4回第6回参照)。実際、1980年の大平正芳総理の政策報告書、第一報告書「文化の時代」において、欧米へのキャッチアップは終了したと宣言されている(30年経った現在、グローバル教育分野で、欧米へのキャッチアップという言葉が使われているのは興味深い)。

そして、その後、行われた臨時教育審議会では、「新たな学力観」が重視されるようになってきた。この新しい学力観においては、「これからの日本人に必要なのは、知識や技能の“詰め込み”ではなく、自らの頭で考える力、個性や創造性、生きる力である」とされる。マジックワードのオンパレードである。それまで最低ラインを示すものであった日本の公教育はここで方針を転換し、「こういう人物を育てたい」という欲張りなリストとして構成されるようになった。だいぶはしょるが、ゆとり教育の路線もこういった言葉から生まれてきたのであり、これらの言葉は今も教育政策の中心にある。

話を現在の改革論議に戻して、今、用いられているマジックワードを見てみよう。

改革の基本方針は「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」(平成26年12月22日の中央教育審議会)にまとめられている。副題には「すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために」とある。題名などは、必然的にマジックワードとなるのだが、重要なのは、これをいかに具体的に現場に落とし込んでいけるかである。

センター試験がやり玉に挙がった

現行のセンター試験では、「知識・技能」を問う問題が中心となっているが、新たな制度では「確かな学力」のうち「知識・技能」を単独では評価しない。「知識・技能を活用して、自ら課題を発見し、その解決に向けて探究し、成果等を表現するために必要な思考力・判断力・表現力等の能力」(「思考力・判断力・表現力」)を中心に評価するのだという。

ここでは、現在のセンター試験の問題点として、知識・技能を単独で評価していることが挙げられている。確かに、知識・技能は使うものであり、それを使う力を養うことは重要だ。しかし一方で、そもそもの知識・技能がなければ、それを使うことはできない。文科省の自前の調査によると、中学・高校時代の内容の補習をしている大学が全体の約半数に上っているという無視できない問題がある(文部科学省「大学における教育内容等の改革状況等について」2011年)

この補習は、高校を卒業した大学生に「知識・技能」を使う「思考力・判断力・表現力」が不足しているために行われているのではない。大学で学ぶために不可欠な「知識・技能」が高校卒業時点で身に付いていないから行われているのである。マジックワードの風呂敷で包まれて、このような現状が見えなくなっている。高大接続の本当の問題は、こういうところにあるのではないのか?

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