高等教育を受ける「権利」が大衆化し(これはポジティブな要素も大きい)、それに付随する「義務」が意識されなくなっているのが現状だろう。
「当事者意識」をどこに持つか?
次に、「当事者意識」に関してだが、実は、ここからの話をするに際して、はじめは「帰属意識」という言葉を使おうと思っていた。しかし、所属の複雑さが増した現代で、この表現は誤解を生みやすい。ここでは、「当事者意識」という表現を用いて話を進めよう。
社会において、自分がどこの「当事者」として生きていくか。ニックや先ほどの小説に出てくる昭和の官僚たちの例で言うと、選抜意識も相まって、彼らには国の発展のまさに当事者としての自覚が見える。この“国”に当たる部分が人によって、地域や世界だったり、国籍や宗教、はたまた性別だったり、いろいろだろう。つまり「当事者意識」というのは、自分がこの○○を何とかしなければ、という意識である。
当事者意識は、どのようにすれば生まれるか。そのカギは次に述べる「問題意識」だろうと私は考える。また同時に、それは日本で人材を育成するカギになるのではないかとも考えている。
国内が分断されてしまう南アフリカの事情
ニックの持っている南アフリカへの問題意識の一例として、こんなものがあった。
今の南アフリカは、国内に異なる人種の人々が住み、11もの公用語がある。この公用語の多さが、ひとつの大きな社会問題を生む。高等教育が、原則、「英語」で行われるのだ。つまり、初等・中等教育をそのほかの言語で受けた多数の学生は、高等教育を受けるうえで不利になるのだ。しかも、英語やアフリカーンス語(白人系の言語)を話さない約80%もの国民は、多くが貧困層だ。超えがたい11もの言語の壁、英語の壁が、社会格差を生むのである。言語の違いによって、これだけの「違う社会」が国内に存在するとなると、「国」という意識も生じにくい。それがニックの問題意識だった。
ちょっと寄り道になるが、日本語で博士号まで取れてしまうという意味では、日本の教育は優れていると言える(同時に問題も発生するが)。また、海外から輸入した「学問」を近代化の渦中に、全部、日本語にできてしまったというのも驚異的だ。
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