綿菓子製造機の移動販売がゲーム全盛期への道築いた--カプコン会長兼CEO 辻本憲三[上]
それをもって83年6月、辻本はカプコンを創業する。だがその半年後、辻本を襲ったのがコーガンの急逝だった。創業者を失ったタイトーが突如突き付けてきたのが、「即刻返済せよ」の通告だったのだ。
辻本は初期投資に使ったばかりの1億5000万円を、金利20%で借金し直す羽目になる。その後も自転車操業で倒産の危機に何度も陥った。地元の銀行幹部が「会社(カプコン)に信頼はないが、辻本憲三が好きだから貸す」と情けをかけたことも、一度ではなかったという。
だが、創業メンバーで開発の青木隆(現品質管理部長)は、当時の資金繰りの苦しみを知らない。開発現場に対し、辻本は切迫した様子を一度も見せなかった。「明日か明後日かには潰れるかもしれない、そんなときでも現場に来てニコニコしていた。『調子はどうだー』とかそんな感じ。だからこっちは会社が苦しいのがわからない。『作りたいもの作れ』と言って信用してくれたから、すごくやりやすかった」(青木)。
100万円単位の高額機材をいくつも注文していたとき、開発以外では10万円の出費にも慎重だったことを、青木は後になって知った。
一方で辻本がハッパをかけたのは、作品が当たったときだ。大喜びの現場に対し、「このゲームはこんなもんじゃない、もっと行く」と計画値を3倍に書き換えて、担当者を青ざめさせた。そしてその修正計画値は、あたかも既定値のごとく次々と達成されていく。苦しい中でも天性の嗅覚が鈍ることはなかった。
定時制で学んだ青年時代 おしぼり屋から得た教訓
辻本は“語るカリスマ経営者”ではない。質問するとじっと考え、核となる短い言葉を吐く。創業来、古参社員の多くが辻本から離れていない。多くを語らない辻本の背中に、社員たちは何を見てきたのか。