つんく♂:そもそも、人がどういうときに「天才」という言葉を使うかといえば、「負けを認めたとき」だと僕は思っているんです。
人って、まず「この人はすごい」「俺にはちょっと敵わない」と思ったときに、過去の何かにたとえたくなるんですよ。「令和の松田聖子!」とか「令和のメッシ!」とかね。ものの場合は「昔でいうレコードです」とか「フロッピーディスクの親分みたいなものです」みたいな。
そうやって自分で理解できる範囲に置くことで、なんとか心の安定をはかるように思うんです。
「天才」という言葉を、なぜ使ってしまうのか
つんく♂:ただ、ついに過去の誰にも何にも置き換えられない、見たこともないものに出会ったとき(敗北感を感じたとき)に、人はそれを「天才」と呼び、自分の心をなだめるんだと思います。「あれは天才だから別だよね」みたいな感じで。
孫:なるほど。確かにそうかもしれませんね。まずは過去のすごい人と比べようとするわけですね。
つんく♂:たとえられるときは、まだ少しだけ優越感があるんです。たとえるものがないほどの才能に出会ったとき、つまり次元が違う才能に対しては、「天才」という言葉を使うしかないと思うんです。
孫:見たこともない、切り離された存在ですね。
子どもはみんな「天才」だ!
つんく♂:そういう意味で、3歳未満の子どもたちって、みんな天才だと思うんです。まだ常識なんて学習していないし、比べるものがない。
常識を身につけてしまった僕らから見れば、異次元の存在ですよ。だから「何でそれを口に入れんねん!」「何でそれを家の中に持ってくるねん!」となる(笑)。
孫:そうそう。子どもって本当に天才ですよね。まっさらで「誰々みたいなこと」はやらないですからね。
つんく♂:だから、僕も孫さんの本を読んで、子どもたちに「新しい形の教育」が必要だというのはすごく同感して、期待しているんです。