本名ではない「紫式部」、なぜ紫式部と呼ばれたか 生まれ年や没年すらもいまだ謎に包まれている

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「年齢も仏道修行に似合わしい程になってきました。これ以上、老いぼれてしまうと、目も悪くなり、お経も読めなくなり、お勤めの気持ちも、益々、だらけていくに違いありません」と式部は消息文に書いているのです。

1010年の時点で、式部は自分のことを「老いぼれ」と言っている。しかも、目が段々と悪くなりかけている様子も窺うことができます。老眼の入り口でしょうか。

40歳より前に老眼になることは余りないと言われています(とは言え、早い人では30歳で老眼になってしまう人もいるようですが)。40歳を過ぎた頃から、老眼の症状が出てくることが多いとされています。一概には言えないとしても、そうしたことを考えたときに、式部は1010年には、40歳は超えていたように思うのです。

よって、1010年から40年を引いて、970年(頃)に式部は生まれたのではないかと私は推測しています。970年というのは、天禄元年です。

紫式部 大河ドラマ 光る君へ
京都府・宇治市にある紫式部像(写真: 白熊 / PIXTA)

式部のお母さんは、式部を産んで程なくして、亡くなってしまいます。そして、式部の父・藤原為時は、その後、新しい妻との間に複数の子供をもうけることになります。昼は役所に勤め、夜は新しい妻(式部にとっては継母)のもとに通う生活を為時はしていたように思われます。

式部の幼いころの記憶

式部には、姉や弟がいましたが、彼・彼女らは、父が邸に帰ってこない夜などは、どのような想いで過ごしていたでしょうか。

父もおらず、母もいない邸内。女房(侍女)らはいたかもしれませんが、寂しい想いをしていた可能性もあります。

式部の幼少期の記憶には、女房との思い出があったようです。975年、式部が5歳の夏頃。夕方になると、青白い尾を長く引いたものが、何日も空に光っていたとのこと。女房らは皆、怖がり「あれは、箒星。見てはいけません」と式部に話したということです。

幼い式部は、不気味な箒星を興味深く思ったのか、それとも、恐怖に震える女房たちを不思議な面持ちで見ていたのか。式部の幼い頃には、世の中の情勢も不安定で、強盗や殺人・放火が横行していたようです。内裏が焼けたり、地震もありました。地震の際は、乳母が抱きかかえて、式部を庭に連れ出してくれました。あちこちで家が倒れる凄まじい音。濛々と上がる土煙は式部を驚かせたでしょう。

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