次に祖父宅から徒歩10分ほどの実家を訪れた。東京の自宅から連れてきていた飼い猫の状態を確認するためだ。ロシアンブルーのメスで2歳。トイレや簡易ケージと共に置いていた部屋に入り、「おそばー、どこだー?」と名前を呼んだ。
普段なら「にゃーん」と甘えた声を出しながら、すぐにすり寄ってくるのに、何の反応もない。捜索すると、タンスと壁の隙間に隠れて身を縮こまらせていた。抱き上げると、瞳孔を開いたまま、ガタガタと震え出した。
「怖かったな、ごめんな」。声をかけながら頭をなでると、震えは一層強まった。かわいそうだが、避難先のホテルへ連れて行くことは叶わない。エサ皿にキャットフードをたんまりと盛り、好物の「CIAO ちゅ~る」や猫用スナックを出したうえで、後ろ髪を引かれながら、部屋のドアを閉めた。
数えきれないぐらいの余震
ホテルに戻ると昼時を過ぎていたので、インスタントのうどんを作った。スプーンで麺をすくって娘の口元へ持っていく。娘はプイッとそっぽを向いてしまった。結局、この時もほとんど何も食べなかった。
この日も数えきれないぐらいの余震があった。グラグラと部屋が揺れるたびに、記者か妻が娘の体を机の下に隠したり、上に覆いかぶさったりして守った。娘は泣き叫ぶどころか、声すら一つも上げない。ただ体を硬直させ、じっと耐えるだけだった。
「これからどうするのか、あなたが決めて」。妻は記者にそう言ってきた。当初の予定ではこの日の午前中に東京へ向けて電車に乗るはずだった。運休となっていた北陸新幹線は午後3時半ごろに復旧。ただ、JR七尾線は止まったままで、金沢駅までの列車はなかった。
記者にとって、第一優先は娘の命だった。翌朝にホテルを出て帰京することを決めた。父の車はガソリンが少なくなっていたため、まだ残量が多かった祖父の車を借り、地元を走り慣れている父に運転を頼んだ。友人たちと金沢市在住の叔父に電話やLINEで道路や渋滞の状況を聞きまわり、より安全そうな走行ルートを探った。
やり取りした友人の1人は、母親が七尾市の公立病院で看護師として働いていた。「地震の後に出勤して一度も帰ってきていない」とその友人は教えてくれた。きっと修羅場の中、人命を救うために職責を全うしているのだろう。
一方、私の職業は記者だ。苦しんでいる人々がいたら、その窮状を伝えることが仕事のはずだ。現場に出て取材するべきなのに、自分たち家族だけ逃げ出してよいのだろうか。いやそれ以前に、人として、年老いた祖父母を危険な場所に置き去りにするべきなのだろうか。
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