家康は、初代の京都所司代に、奥平信昌を任命したものの、たったの1年で交代させている。「信昌では京都所司代が務まらないと、家康が判断した」ともいわれているが、そもそも家康は、信昌にそれほど大きな期待をしていなかったと思われる。
にもかかわらず、重要な役職につけたのは、信昌が家康の長女・亀姫の夫だったからにほかならない。
家康は、関ヶ原の戦いののち、次女・督姫の婿である池田輝政や、三女・振姫の婿である蒲生秀行に大幅な加増を行っている。
そんな身内に甘かった家康が、同じく婿にあたる信昌を京都所司代に任命した理由について、歴史学者の本郷和人氏はこう分析している。
「家康は長女・亀姫の婿である信昌も厚遇したい。それで京都所司代をしばらく任せて、その功績に報いるというかたちをとった」
事実、家康は信昌にわずか1年だけ京都所司代を務めさせると、上野国の小幡3万石から美濃国の加納10万石へ加増転封を行っている。もし、家康が不適格を理由に、信昌を京都所司代から外したとすれば、このような厚遇はありえないだろう。
関ヶ原の戦い後も、厳密には豊臣家の最有力家臣でしかなかった家康にとって、婿は自分を裏切ることのない存在として貴重だった。「京都所司代の初代」というポジションは、大事な婿に箔をつけるために、利用されることになったようだ。
家康に重宝された板倉勝重
ならば、血縁ではなく純粋な実力で家康が重用したのは、誰だったのか。その1人が、板倉勝重である。家康は京都所司代を1年だけ信昌にやらせたあとは、勝重に引き継がせ、実に19年にもわたって任せている。
勝重は京都所司代になる前にも、駿府町奉行、小田原地奉行、江戸町奉行、京都奉行を経験し、数多くの事件と訴訟を裁定した。見事な裁きぶりは『徳川実紀』で、こんなふうに評されている。
「勝重の裁きとなれば、訴訟に負けた者すらも自分の罪を悔いて、奉行を恨まなかった」
まさに理想的な「名奉行」といえるだろう。江戸の名奉行といえば、大岡越前が最もよく知られているが、有名な「三方一両損」を始めに、越前のエピソードには、勝重の裁きが元になっているものがいくつかある。さしずめ「元祖・江戸の名奉行」といったところだろうか。
もっとも勝重の裁きを収録した『板倉政要』もまた脚色が指摘されている。そのため、そのまま事実とは受け取れないが、伝説化したのもまた名奉行として、勝重がそれだけ知られていたがゆえだろう。
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