オワコン化した従来教育、捨てられる教師の末路 平成の価値観が通用しないZ世代が親になる頃に危機

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教育に関心があり、新しいアイデアのある人ほど、「学校ではないところ」で教育に関わろうとする。裏を返せば、旧来の価値観や手法のままでいい、学校に変化など必要ないとする保守的な人たちが学校に集まる傾向があるというわけです。

採用側である学校としても、今までの自分たちのやり方を否定されたくありません。となると熱い教育改革論をぶつけてくる人よりも、早々に自分たちの色に染まってくれそうな人のほうが好ましいので、いくら新しい人材を採用しても、一向に変化は起こらない。それどころか旧来の価値観や手法が固定化し、強化されやすいのです。

かくして、世の中は刻一刻と変化しているというのに、学校だけは取り残されたまま日本国内のガラパゴスと化していることは否めません。

あるべき「学びの形」が変わっている

そして第3の事実として挙げなくてはいけないのが、優れたデジタルツールの登場により、学びの形が変化を求められていることです。こういうと、2022年に日本でもリリースされて話題をさらったChatGPTなど、生成AIを思い浮かべるかもしれませんが、デジタルツールが教育に与える影響は、今に始まったことではありません。Google検索、もっといえばパソコンとインターネットが普及したころから、ずっと起きてきたことです。

かつては「知識があること」自体に価値がありました。ところが、その価値はパソコン、インターネット、Google検索の登場以来、どんどん薄れてきました。本から知識を得て記憶しておかなくても、キーワードひとつ打ち込むだけで知識を得られるからです。わからないことに出会ったら、Googleで検索すればいい。「あれって何だっけ?」と思うたびにGoogle検索で確認すればいい。

この発想は、手のひらサイズのパソコンともいえるスマートフォンの普及によって、いっそう強く人々に根付きました。こうして「知識があること」自体の価値が薄れるのと引き換えに、価値が高まってきたのは思考力や想像力、創造性です。知識を蓄えることではなく、知識を使って考え、想像し、創造する能力が重んじられるようになりました。

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