現在は国の重要文化遺産となっている地下回廊だが、発見から200年近くは文化財として保護されてきたというよりも、人々の生活の一部として親しまれていた。
19世紀頃には、市民が地上から遺跡の天井をぶち抜く穴を開け、井戸として使っていた。また19世紀後半には医神アスクレーピオスの縁からか「病を治す奇跡の水」という噂が流れ、市外からもご利益を求める人々が集まったそうだ。20世紀初頭になると「プラタ通りの水の缶詰(Conservas de Agua da Rua da Prata)」の愛称が付き、貯水槽として利用されたという。
今も地下回廊は利用されていた
このように地下回廊は長いこと「水を使う何らかの施設」と捉えられてきた。発見時からずっと水に浸されてきたのだから無理もない。だが、研究が進んだ現在、この地下回廊は水を使うというよりも、むしろ水から守る「地上の建物を支える土台」として建造されたとの考え方が支持されている。
1世紀当時のリスボンは、すでに人口が3万~4万人ほどの当時としては大都市で、ローマ帝国からは「オリシポ」という名で呼ばれていた。中心地のローマからは遠いものの、テージョ川河畔にあるオリシポは、各地から物資や人々が集まる港町として繁栄したそうだ。
「すべての道はローマに通ず」ということわざがあるように、古代ローマ帝国といえば「ローマ街道」、つまり陸路が有名だが、実は河川も高速道路として重要な役割を果たしていたのである。
しかし、テージョ川河畔の湿った土地は地盤として頼りなく、何を建てるにしても建築物が傾いたり、地盤沈下したりする恐れがあった。そこで古代ローマの建築家たちは、地下にローマンコンクリートの回廊を設けることで、強固で水平な地盤整備を実現したのだ。
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