母親となった桐壺は、もともと、ごくふつうの女官のようにずっと帝のそばにいて、あれこれと世話をしなければならないような身分ではなかった。しかるべき身分の品格があり、世間からも尊敬を受けていた。けれども帝が桐壺を放そうとせず、管絃(かんげん)の遊びや重要な催しにはかならず呼び寄せ、寝室に泊めて朝になっても帰そうとしないこともあり、自然と桐壺は世間から軽く見られることもあった。けれどもこの若宮が生まれてからは、帝は別格の配慮を持って、母なる「御息所(みやすどころ)」としてそれに似つかわしい待遇をするようになった。そうなると、もしやこの若宮が東宮(とうぐう、皇太子)とされてしまうのではないかと、最初の子を産んだ弘徽殿女御は不安を覚える。この弘徽殿女御はだれよりも早く入内(じゅだい)し、帝にもそれなりに扱われ、皇子だけでなく女皇子(おんなみこ)も産んでいた。帝も、この女御だけはけむたくもあるが、無視のできない存在でもあった。
帝の深い愛情に頼ってはいても、ほかの女たちからとかくあらさがしをされ、悪(あ)しざまに言われる。病弱で、後ろ盾もない桐壺は、帝に愛されれば愛されるだけ、周囲の目を気にし、気苦労が増えていく。
つらいことが日に日に増え
桐壺という部屋は、帝の住まう清涼殿(せいりょうでん)からいちばん遠い東北の隅にあった。帝はひっきりなしに桐壺へと向かうのだが、その都度、大勢の女御、更衣の部屋の前を通りすぎることになる。素通りされる女たちがやきもきするのも致し方ない。また、帝に呼ばれて桐壺が清涼殿に向かうことが続くと、打橋(うちはし)や渡殿(わたどの)といった通り道に汚物が撒き散らされることもあった。桐壺に仕える女房たちが送り迎えをする際に、着物の裾がたえがたく汚れるほどである。またある時は、桐壺が通る廊下の、前後の戸の錠をあちらとこちらで示し合わせて閉めてしまい、桐壺を戻るも進むもできないようにして困らせることもあった。
とにかく何ごとにおいてもつらいことが日に日に増え、桐壺はますます苦しみ、悩むのだった。そんなふうに悩み抜く桐壺を不憫(ふびん)に思った帝は、清涼殿に近い部屋、後涼殿(こうろうでん)に仕えている更衣をほかに移し、そこを控えの間として桐壺に与えた。当然ながら、移された更衣は晴らしようもない恨みを桐壺に持つことになる。
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*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
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