ガザ危機「10月7日、私はミサイルの音で目覚めた」 現地で支援活動した日本人が語る恐怖と「感謝」

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病院、学校、レストラン。知っている建物が破壊されていた。 変わり果てた街の中、大きな荷物とたくさんの子どもを引き連れた多くの人びとが、行く当てもなくさまよい歩いている。「お願い! 私たちも乗せて!」と、私たちの車を追ってくる人たちもいた。

しかし、何もすることができない。胸が張り裂ける思いだった。

避難民が押し寄せた国連施設

南部に避難してからもセキュリティの状況によって、私たちは何度か移動しなくてはならなかった。避難場所の1つとなった国連の施設には、北部から多くの避難民が押し寄せていた。

私たちは建物に入れない多くの人たちとともに、屋外での避難生活を余儀なくされた。日中は30度を超える暑さの中、廃材のビニールで日よけを作り、夜に雨が降ると車の中にひしめき合って雨をしのいだ。

避難中の寝泊まり
10月13日以降、ガザ南部に避難中、屋根のない場所で寝泊まりしていた。ひさしを作るなどして日差しをさえぎった ©MSF

イスラエルの退避要求により、南部に避難したにもかかわらず、南部でも空爆は絶え間なく続いた。ドーンドーンと響く音や銃声が昼も夜も聞こえ、着の身着のまま避難してきた人びとが過酷な状況を強いられていた。

子どもたちが恐怖のあまり泣き、多くの人が食べ物や水もない屋外で避難生活をしている姿を見て、私は強い憤りを感じた。

何の罪もない一般市民が傷つけられ、苦しむのが戦争であり、当たり前の日常は、紛争や戦争によって一瞬で崩れてしまうということを実感した。

避難所には日に日に多くの避難民が押し寄せ、衛生状況は日々悪化していった。数万人の避難民に対し、トイレは十数個。生活用水はもちろん、飲む水や食べ物も足りなくなっていった。

「水はあと何本ある?」「缶詰はあと何個ある?」と数えながら、1日に必要なギリギリのカロリーを計算し、なんとか生き延びようと皆で励ましあった。どうしても温かいものが食べたいときは、廃材の木を拾ってきて火をつけ、缶詰を温めて分け合って食べた。

特に恐怖を感じたのは、10月末にガザ全体で携帯電話やインターネット、すべての通信が遮断されたときだ。

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