「Z世代は覇気がない」と嘆く中高年が知るべき経緯 哲学と歴史からみれば彼らは「進化した人類」?

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このときフクヤマは本書で「マクロ的な視点で考えると、人間社会の政治形態で勝利を収めるのは、持続性がある自由民主主義みたいですよ」という仮説を提示して、世界で大きな反響を呼んだ。

フクヤマはこの仮説を、哲学者ヘーゲルが提唱した「人類の歴史は『自由の実現』を目指した闘争の歴史である」という考え方に基づいて、考察している。

ヘーゲルは「歴史は承認を求める闘争である」としたうえで、歴史の始まりにいた「最初の人間」という概念を提唱した。この歴史の始まりは、具体的に「いつ」とは特定できない。「人間の最初の戦いが始まったとき」という意味だ。最初の人間とは、その歴史の始まりで戦いをした人間のことである。

最初の人間は他の人間と出会うと、相手に自分を認めさせるために激しく戦った。勝ったほうが貴族となり、負けたほうは奴隷になった。これが「誇りのために命を賭ける」という西洋の貴族社会の文化を生み出した。歴史の始点には、こうした貴族道徳を持つ最初の人間がいた。人は歴史を通じて承認(自分の尊厳や威信)を得るため、戦いに命を賭けたのだ。

フクヤマが提唱する「最後の人間」

フクヤマは、「あらゆる戦争は承認を求める貴族道徳が起こしてきた」と述べている。そしてこの歴史的な発展の終点には、最後の人間(英語でthe Last Man)がいる。本書でフクヤマは「ニーチェのいう『最後の人間』の本質は、勝利を収めた奴隷である」と述べている。

この『最後の人間』とは、まさに末人(ドイツ語でLetzter Mensch)のことだ。フクヤマはニーチェが末人と蔑んだ「最後の人間」を、ヘーゲルの「最初の人間」の対極に置いたうえで、なんと「進化した人間」と位置づけているのだ。

“歴史の終わり”では「主君=支配する人間」は消滅し、無用な戦いは消える。フクヤマは「最後の人間は、(中略)大義に生命を賭けるような愚かな振る舞いはしない」と述べている。貴族のように「誇りのために戦う」なんて、考えもしない。むしろ日々楽しく平和に過ごすことが大事である。貴族道徳に生きる「最初の人間」から見たら、歴史の終わりにいる「最後の人間」は、まさに「覇気のない人間」に見えるだろう。フクヤマは、こうして歴史上の大きな戦いはなくなり、「自由の実現」を目指したヘーゲル的な闘争の歴史が終わる、としている。

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