「Z世代は覇気がない」と嘆く中高年が知るべき経緯 哲学と歴史からみれば彼らは「進化した人類」?
ここまでがわかれば、「覇気がない」と思われているZ世代の本質が見えてくる気がしないだろうか。
欲望や闘志があるようには見えないZ世代は、皆で仲良く、空気を読み合い、争わない。フクヤマ流に言えば、彼らはまさに「最後の人間」とも言える。そんな彼らは、これまでシニア世代の多くがあまり重視していなかった社会貢献をとても重視する。
自由民主主義が進化し続けた末に生まれた「最後の人間」であるZ世代は、実は進化した人類である、とも言えないか。
「歴史の終わり」を経験した日本
フクヤマは本書で、江戸時代の日本についても述べている。
「コジェーブによれば、日本は『16世紀における太閤秀吉の出現のあと数百年にわたって』国の内外ともに平和な状態を経験したが、それはへーゲルが仮定した歴史の終末と酷似しているという。そこでは上流階級も下層階級も互いに争うことなく、過酷な労働の必要もなかった。だが日本人は、若い動物のごとく本能的に性愛や遊戯を追い求める代わりに――換言すれば『最後の人間』の社会に移行する代わりに――能楽や茶道、華道など永遠に満たされることのない形式的な芸術を考案し、それによって、人が人間のままでとどまっていられることを証明した、というわけだ」
実際に江戸時代の260年間を通して、日本国内では大きな戦争はなかった。同じ時期、欧米では激しい戦争が繰り返されていた。この「日本はすでに数百年間も歴史の終わりを経験してきた」というフクヤマの視点を踏まえれば、明治維新当時の西洋諸国から見た日本の価値観は、まさにシニア世代から見たZ世代の価値観に近いものがあったのかもしれない。
哲学や歴史を踏まえて考えると、Z世代の台頭のように一見まったく新しい現象であっても、そういった現象の裏に脈々と流れているモノゴトの本質が見える。そしてこれまた一見するとまったく異なって見える別の現象とのつながりも見えてくるのである。
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