「推し活ブーム」を鼻で笑う人に伝えたい社会変化 単身者の増加や孤独感だけが理由ではない

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だが、同書においても言及されているが、コンテンツを介して他者とつながれることや、「祭り」の要素がより大きな動因ではないだろうか。

コミュニティなき時代において、見ず知らずの他人と容易に、かつ緩やかにつながれる機会は激減した。そこに来て、特定のコンテンツへの愛着を表明することで結び付き、交流ができる「推しコミュニティ」は、定期的なコミュニケーションと気分の高揚をもたらしてくれる。しかも、義務や拘束といった堅苦しさはない。

これは、かつて社会学者のジグムント・バウマンが提唱していた「偶像」の周辺に生じる「美的コミュニティ」そのものである。それは「統一的な行動をとる」といったもの以外に根拠を持たず、「温かいサークル」の経験の中から現れるという。「偶像は小さな奇跡を生む。思いもよらないことを起こす。本物のコミュニティなしに『コミュニティ経験』を生み出す。縛られる不快感なしに、属することの喜びを生み出す」と指摘している(『コミュニティ 安全と自由の戦場』奥井智之訳、ちくま学芸文庫)。

続けて、「お祭り気分で楽しく消費される限りは、偶像中心のコミュニティは『本物』と区別することが難しい」とも述べている(同上)。特定のコンテンツとともに人生を歩む「推し活」は、ハードルが低く、お祭り気分が味わえる。それによって日常生活を賦活する意味は小さくないだろう。だが、それ以上に重要なのは、自由な選択が可能な自律的な主体を取り戻せるということであり、それがこの活動の熱量を支えていると考えられる。

バウマンは、「偶像を中心とするコミュニティは、トリックを使って『コミュニティ』を変える。すなわちそれを、個人の選択の自由を脅かす恐るべき敵から、個人の自律性を発揮したり、(その自律性が本物か偽物かはともかく)再確認したりする場に変える」という(同上)。ポイントは、いつでもすぐに止められること、偶像がつまらなくなればポイ捨てができ、別の魅力的な偶像に飛び付けることだ。偶像の数に制限はない。

「推し活」が自律性を回復する代替になりうる

一昔前、「自分探し」が流行った。今では「推し探し」が流行っているという。ソーシャルメディアなどで「推しを探し中」を公言する若者も少なくない。誰かを「推す」こととは、自分が「推し」を選ぶという自律的な行為であり、それによって充足感を得られれば、自己肯定感を高めることができる。これは、普段の社会生活で自律性が奪われている状態であればあるほど、「推し活」が自律性を回復する代替になりうることを示唆してもいる。

「自分探し」は、「何者かにならなければならない」という自己実現志向に駆動されていたとすれば、「推し探し」は、「何者かを選ばなければならない」という自己肯定志向に駆動されているといえるかもしれない。

もちろん、ソーシャルメディアの席巻により「一億総発信者時代」に突入しているため、自分が「推し」になりたいという人々も増えている。だが、これも主として自律性の回復が目指されている点で変わりはない。

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