遠藤 ただそれも、絶対的なものではありません。いまの日本国憲法の中で生きていくならそうだということで、他の国では違いますし、あるいは50年後、100年後の日本には、別の社会規範があるかもしれない。
その範囲を、善悪の判断に偏らず、冷静かつ柔軟にそのときどきで決めていけるかが大事ですね。
特に、感情論とか道徳論とか伝統といったものとごちゃ混ぜになっている面もあると思うので、そうしたものとパブリックな価値を切り分けていくことが必要でしょう。
個人のウェルビーイングと社会のウェルビーイング
宮田 そういったことは、義務教育でないとできないことだと思います。自らお金を払って大学で学ぶことではないかもしれないけれど、必要なことではある。
個人としてのウェルビーイングを高めることは、各人が自己実現の中で取り組めばいい。では、誰もがよりよく生きるという意味での全体のウェルビーイングをどう担保すればいいでしょうか。
国や県として、あるいは市や町としてコミュニティの維持は重要なことですが、個人のリスクテイクでそれをどこまでカバーできるのか、あるいはカバーすべきなのか。
誰ひとり取り残さない、あるいはコミュニティを維持するといった、個人を超える課題を解決していくのも学校教育の使命ではないかと考えています。この点はいかがでしょうか。
遠藤 社会のウェルビーイングが実現していないと、個人のウェルビーイングも実現しないでしょう。極端な例でいえば、毎日爆弾が降ってくる中で、個人として安定した幸せな生活をしていくのは難しい。
だから、幸せになれる人にはなってもらって、後はほったらかしでいいということはない。個人が幸せに生きられる社会と、すべての人が幸せに生きられる社会の両方を目指していくのが、教育の使命だと思います。
(第2回に続く)
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