松浦弥太郎が「必要以上の経済活動をしない」理由 「ドクター・ユアセルフ」できる自分になる
さらにエッセイを書くことが習慣になっていれば、どんなできごとが起こっても「エッセイの種になる」と前向きにとらえられるようにもなるでしょう。あたらしい「秘密」を見つけることができそうだ、と。
だからこそ、まだ感情がたかぶっているときに書くのでは早いのです。
夫婦喧嘩も肯定することができた
『今日もごきげんよう』(マガジンハウス)という僕のエッセイ集にある「夫婦喧嘩」という一篇。タイトルどおり、いま読むと笑ってしまうような日常の些細な喧嘩の様子がありのままに描かれています。
けれどその喧嘩の描写のみで終わらせるのでは、エッセイとは言えません。そこからコミュニケーションや夫婦関係について考えをめぐらせ、自分なりの発見に落とし込んで、はじめてひとつのエッセイになっていきます。
もし、腹を立てている最中や仲直りする前に「こんなことがあって腹が立って……」と書いていたら、なにも理解できないままで、感謝にまでたどり着くことはできなかったでしょう。落ち着いて考えたうえで筆を執ったからこそ、「ありがたいな」と肯定することができたのです。
「全肯定」で生きる。
エッセイストは、いやなことも前向きに味わい尽くせる生き方なのです。
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