私たち人類はいつアフリカ大陸を離れたのか 世界各地に散った人類の肌の色は多様に

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ヒト族(700万年ほど前に類人猿の仲間から離れ、私たちの遠い祖先となった種族の総称)の化石で最古のものはアフリカで見つかっており、その数や種類も最も多い。ヒト族には20以上の種があり、複数の種が共存していた。ホモ・サピエンスの出現(約30万年前)以前、およそ400万年前には猿人アウストラロピテクスがいたし、240万~160万年前には最初期の原人ホモ・ハビリスがいた。

今の私たちと似た体形になったのはホモ・エレクトゥスで、約200万年前に出現し、アジアでは約10万年前まで生存していた。私たちに最も近い祖先が生きていたのは70万~30万年前で、狩猟を得意とし、火の扱いにも慣れていた。

道具を使う文化

初期のヒト族はサバイバル術に長けていた。ケニアのトゥルカナ湖付近で発見された石器は330万年前のものだ。240万年前にはホモ・ハビリスが石器を用いて動物の死体から骨髄や肉を取り出していた。

アフリカのホモ・ハイデルベルゲンシスから進化したホモ・サピエンスの登場は約30万年前のこと。当時から天然の顔料を使っていた証拠がザンビアのツインリバーズ洞窟で発見されている。石で手斧を作り、それで肉を切り、動物の皮をはぎ、木を削ったりした。火があれば夜も明るく、暖をとれるし、肉を焼くこともできた。食生活が変わると歯の形や顎のサイズも変わり、脳はどんどん大きくなっていった。

コンゴ民主共和国では骨を削って作った銛もりが見つかっており、約9万年前のものと推定されている。南アフリカのブロンボス洞窟では約7万年前の骨器や顔料の工房、そして最初期の絵が見つかった。同じ南アフリカのディプクロフ岩窟で発見されたのはダチョウの卵殻に幾何学的な模様を刻んだ水入れで、こちらは約6万年前のもの。またエスワティニ(旧スワジランド)には4万3200年前の採石跡がある。

1967年、ケニアの人類学者リチャード・リーキーはエチオピアのオモ川周辺で2つの頭蓋骨(部分)を発見した。それが2005年に、19万5000年前のホモ・サピエンス(現生人類)のものと判定された。当時はまだ、人類発祥の地は約20万年前のアフリカ東部と考えられていた。しかし2017年には、西部のモロッコで出土した頭蓋と顔面、顎骨を含む現生人類の化石が31万5000年前のものと判定されている。

そのため今日では、現生人類の故郷は特定の地域ではなく、アフリカ大陸のあちこちにあると考えられている。フランスの化石人類学者ジャン= ジャック・ユブランに言わせると「エデンの園は、おそらくアフリカそのもの。ものすごく広くて大きい」。

ダーウィン以前の進化論

チャールズ・ダーウィンの『種の起原』(1859)や『人間の由来』(1871)よりもずっと早く、自然淘汰による進化の仮説を提唱した黒人がいる。中世のバグダッド(イラク)に生きた文筆家アブウスマン・アルジャヒズ(781~869年)だ。

アラビア語の書物を残しているが東アフリカ系の人物とされ、バントゥー系の奴隷の孫と伝えられる。彼は『動物の書』という本で、あらゆる動物は生存と繁殖、食物確保のために戦っており、その過程で生存に適した特質を身に付け、それらを自分の子孫に伝えていると説き、体形の変化はその結果だと考えた。当時としてはすぐれて先進的な発想だ。アルジャヒズはこの考えを理論化していないし、ダーウィンが彼の本を知っていた証拠もないが、特筆に値する先駆的業績だ。

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