中で作業をしていた老人は、店の前でじっと佇んでいる私を一瞥すると、そのまま立ち上がって扉の鍵を回し、「もっと近くでご覧なさい」とにこやかな表情で声をかけてくれた。こんな見窄らしいなりの若い外国人の画学生を、無防備に宝石を扱う店の中へ誘ってくれるなんて、という戸惑いを覚えるも、老人の笑顔に引き込まれるようにそのお店の中へ足を踏み入れた。
店の奥で椅子に座ってレースを編んでいた白髪の夫人にも挨拶をすると、彼女は優しく微笑みながら「あなたはどこの国から来たの?」と問いかけてきた。その時彼女は、客で有り得るはずもない私に対して、イタリア語の敬語である「Lei」を用いた。よそよそしくはあるが、あなた、よりもずっと敬いの意識が込められた人称で、私はそれまで誰かから「Lei」などと呼ばれたことはなかった。私はスッと背筋を伸ばし、できる限り丁寧な口調で「日本人です。アカデミアの留学生です」とやっと言葉を返した。
「日本からだって?」と老人がびっくりしたような声を上げた。「このお嬢さんはそんな遠くから、はるばるイタリアまで絵の勉強に来ているのか。大したものだね」と瓶底のような眼鏡のレンズの中の目をくしゃくしゃにして微笑んでいる。イタリアに来てから初めて褒め言葉をかけてもらえたことで、私も照れ笑いを隠せなかった。
老人はカメオ職人のフォルテさん
老人はカメオ職人のフォルテさんで、その店の創業者のひとりだった。もうひとりの主人であったクァリアさんは既に3年前に他界していたが、ふたりともナポリ近郊にあるトッレ・デル・グレーコというカメオの名産地から、終戦直後のフィレンツェにやってきて、その店を開いたのだという。
「お嬢さん、ご覧なさい。うちの店にあるのはね、全て地中海が生んだ素材でできているんですよ。何世紀も、何十世紀もむかしから、地中海の人々に愛され続けてきたのと同じものを今も作っているんです、素晴らしいでしょう?」
そう言いながら、手に握れる太さの木の棒と、その先に鑞で留められた薄茶色の楕円形に切り取られた貝を見せてくれた。貝の白い突起部分に白い美しい女性の横顔が彫り込まれ、優しい微笑を口元にたたえていた。貝から女の人が浮き上がってくるような不思議な印象があった。カメオというもの自体を初めて見た、と伝えると「この手法も古代のままなんですよ」とフォルテさんは誇らし気に、だけどとても丁重な言葉づかいで私に伝えた。
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