「窓越しにデッサン紙の筒を持ったあなたが見えてね。絵を学んでいることはすぐにわかりました。私も職人ですけどね、古代の美を追求するフィレンツェという街に移り住んだという意味ではあなたと同じ仲間です」
フィレンツェに移り住んだ表現者というその言葉は、絵という先の見えない道を選び、苦悩し続けていた私を暖かく包み込んでくれた。皺に刻まれた夫婦の穏やかな顔を見ていると、今は大変でもその向こうがある、と思える気持ちが芽生えてきた。
フォルテさん夫妻があまりに親切で、その後も学校へ向かうたびにガラスの窓越しに挨拶をしていたら、日本からのお客も増えてきたので時々でいいからと、その店でのアルバイトを頼まれることになった。おそらく、当時の私の経済的な苦しさを察していたのかもしれないが、あくまで日本語ができること、そして美術史の知識をそこでも活かせるから、というのが理由だった。カメオという芸術嗜の宝飾品を扱えたことが、その後の私の古代ローマに対する興味を発芽させた理由であることは間違いない。
煌びやかなポンテ・ヴェッキオを渡ってその通りに差し掛かり、この店の、夫人の手がける、柔らかな波のようなシルクが敷き詰められたウィンドウを目にすると、観光客の中に「橋の上で眩しく輝いている石やゴールドを幾つも見たあとに、古代時代のカメオや珊瑚の細工を見るとほっとします」という心境になる人もいたようだ。
カメオは唯一無二の宝
仮にこの店がルネサンスの繁栄時代に存在していたとしても、おそらく入ってくる客の中には同じような言葉を口にしていた人がいただろう。そこにフォルテさんが「カメオは地中海の恩恵と、我々職人の技が一体化した、古代から続く唯一無二の宝であり、芸術作品ですからね」と得意の決め台詞を言うと、お客はそのとたん手に取ったカメオからもう意識を逸らせなくなってしまうのである。
「クァリア・エ・フォルテ」のカメオはフォルテさんが亡くなってしまったあとはもちろん生産されていない。一体どれだけの数の人がこの人たちの掘ったカメオを手にしたのかは知らないが、世界中の人々の手もとにあることは確かだ。先日も母の遺品を整理していたら、貴金属を入れたケースの中からフォルテ氏の掘ったカメオが現れた。キラキラした輝石を嫌う母だったが、写真を見るとこのカメオのブローチに関してはどうやらヘビーユーズしていたようだ。
今はもう記憶の中でしか訪れることのできなくなってしまったこの店との出会いも、今の私を作ったとても大切な要素の一つだったと確信している。
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