オバマ夫人が告白、勝手に「レッテル」貼られる怖さ 大統領選でも経験、固定観念がある種の"真実"に

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最近では“気高く生きる”の意味を尋ねられるとき、その裏に少しあからさまな疑問を感じることがある。そこには当然の懐疑心が含まれている。うんざりした気持ちから生まれ、努力しても無駄で試練に終わりがないと思えるときにやってくる感情。

“でも待って、最近の世界を見た? どこまでひどくなるの? 闘うエネルギーなんてある?”

2020年5月、ミネアポリスの街角でジョージ・フロイドが警察官に膝で首を押さえつけられて死んだあと、こんな疑問を投げかける手紙やメールを受け取った。“気高く生きる”は本当に正しい反応なのか。連邦議会議事堂が襲撃されたあとや、共和党幹部が選挙について有害で誤った主張を支持しつづけたあとも、みんな同じような疑問を抱いていた。

腹立たしいことが際限なく起こる。パンデミックでアメリカでは100万をこえる人が亡くなり、この国の文化の格差がすべて浮き彫りになった。ロシア軍がウクライナで一般市民を殺戮した。アフガニスタンでは少女が学校へ通うのをタリバンが禁じた。アメリカではリーダーたちが人工妊娠中絶の非合法化へ動き、コミュニティは銃による暴力と憎悪犯罪(ヘイトクライム)に絶えず打ちのめされている。

トランスの権利、ゲイの権利、投票権、女性の権利―─すべてが攻撃を受けている。さらなる不正、さらなる残虐行為が見られるたびに、さらなるリーダーシップの機能不全や腐敗や権利侵害が起こるたびに、これと同じ疑問を投げかける手紙やメールを受け取る。

“いまでもまだ気高く生きるべきですか?”

“わかります。でもいまは?“

わたしの答えはイエスだ。いまでもイエス。気高く生きようとしつづける必要がある。この考えにコミットし、コミットしなおさなければならない。誠実に動くことが大切だ。これから先もずっと大切。それは1つのツールなのだから。

「気高く生きる」は感情を行動へ移すこと

でも、同時にはっきり伝えておきたい。“気高く生きる”は感じるだけのものではない。実行するものだ。現状に甘んじて変化を待とうという呼びかけではないし、ほかの人の格闘を傍観していようという呼びかけでもない。抑圧の条件を受け入れることではないし、残虐行為や権力を放置することでもない。

“気高く生きる”という考えから生まれる疑問は、この世界でさらなる公平、良識、公正を確保するために闘う義務があるか否かではない。問題は、どのように闘うかだ。直面する問題をどのように解決しようとするのか。燃え尽きることなく、効果をあげられるまでどのように持ちこたえるのか。

これは不公平で効果のない妥協だと考える人もいる。その人たちに言わせれば、これは“リスペクタビリティ政治”(望ましくないと主流社会が見なすマイノリティの特徴を、マイノリティの側が正そうとすること)の延長線上にある。つまり生きていくために妥協していて、ルール自体に異議を申し立てていないことになる。当然みんな疑問を抱く。

“どうしていつも、わたしたちがものわかりよくいなきゃいけないの?”

理性には怒りが入りこむ余地がないと考える人がいるのもわかる。“気高く生きる”は、どこか距離をとり、普通にしていたら怒りやいらだちを覚えかねないものに無頓着でいることだという見方も理解できる。

でも、そんなことはまったくない。

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