オバマ夫人が告白、勝手に「レッテル」貼られる怖さ 大統領選でも経験、固定観念がある種の"真実"に
“気高く生きる”について尋ねられたら、こんなふうに説明する。わたしにとってそれは、いろいろな“にもかかわらず”にもかかわらず必要なことをし、自分の仕事が意味を持つようにして、声に耳を傾けてもらえるようにすることだ。いつも機敏でいて、変化にそのつど適応できると役に立つ。あらゆる道具(ツール)が揃っていて、それを使う練習ができていたら、すべてが実現しやすくなる。
“気高く生きる”は、1日、1カ月、一度の選挙周期で起こることでもない。それは一生のあいだに、ひとつの世代のあいだに起こることだ。“気高く生きる”は、行動で示すものでもある。
愛情をもって生き、良識をもって行動するのがどういうことか、子ども、友人、同僚、コミュニティへきちんと示すこと。結局、あなたが人に差しだしたものだけが──希望でも憎しみでも──同じものをさらに生むのだから。少なくともわたしの経験ではそう言える。
ジョン・ルイスが伝えようとしたこと
しっかり心にとめておいてほしい。“気高く生きる”は仕事だ―─多くの場合、つらくて退屈で、面倒で過酷な仕事だ。憎しみや疑いを向けてくる人を受け流す必要がある。こちらの失敗を見たい人とのあいだに壁をつくる必要がある。まわりの人が疲弊したり、冷笑的になったり、あきらめたりしても、仕事をつづける必要もある。公民権運動指導者の故ジョン・ルイスは、これを伝えようとしていた。
「自由は状態ではない。行動である」とルイスは書く。「それは、遠くの台地の高い場所にあるうっとりするような花園ではなく、ようやく腰をおろして休める場所ではない」。
いまは“反応”するのがあまりにもたやすく、手軽になった時代だ。怒りは苦痛、失望、パニックとともに簡単に拡散する。情報と誤情報が同じ割合で流れているように思える。親指によってトラブルに巻きこまれ、怒りが簡単に伝達される。怒りのこもったことばを打って、ロケットのようにデジタルの成層圏へ発射するけれど、そのことばがどこに、どんなふうに、だれに当たるのか正確にはわからない。
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