ケンイチさんは「(医療機関では)もっと楽に生きられるようなリハビリやサポートを受けられると思っていました」という。ちなみにこのときの受診でIQが127と高水準であることを初めて知った。
あなたは定型発達になりたいのですか? そう尋ねると、ケンイチさんはこう答えた。
「私は独りでも平気です。可能なら株でもうけて大学院で好きな研究をしたい。ただ実際には働いてお金を稼がなくてはならない。そのためにできるだけ定型に合わせて周囲と摩擦を起こしたくないだけです。日本の会社ではそれができなければ迫害されますから」
では、本当は変わるべきは定型発達の側だと思っていますかと重ねて問うと、ケンイチさんは黙ってうなずいた。そして最近の日本の技術発展や輸出をめぐる環境の変化についてこう持論を述べた。「この間日本は家電でも、半導体でも、新幹線でも、原子炉でも負け続けています。それはイエスマンばかりを重用するような貧しい考え方が招いた結果なのではないでしょうか」。
本連載で話を聞く発達障害のある人は就労がままならず、大人になってから診断を受けたという人が多い。社会適合という意味ではできていない人がほとんどで、この点においてケンイチさんとは大きく違う。彼らは「子どものころに障害がわかっていれば、もっと生きやすかった」と嘆く。この願いは切実だ。幼少期に障害がわかれば、服薬や生活療法などで凹凸による不適合は一定程度軽減される。
ケンイチさんに感じた「不協和音」を指摘
しかし、それは本当に望ましいことなのか。凹凸にしたってしょせん定型発達の“物差し”にすぎない。発達障害のある人が社会に適合できないのは、彼らの問題なのか、それとも社会の問題なのか。発達障害と定型発達の違いは、どちらが社会のマジョリティーであるかでしかないともいえる。定型発達の“常識”に合わせるかのような治療法について、ケンイチさんは自らの仕事になぞらえ「量産型の車を大量につくり出すことと同じかもしれませんね」と言った。
取材で話を聞いた後、私はケンイチさんに感じた「不協和音」をあらためて指摘した。
ケンイチさんは何度か「定型発達の人は平気でうそをつく」と口にしていた。それだとすべての定型発達がうそつきと言っているように聞こえるので、「一部の」とか、「そういう人もいる」というニュアンスを付け加えたほうがよいのではないか。また、ケンイチさんは「私は英語もしゃべれる」「外資系でも働いていた」と発言していたが、それは自慢話とも受け止められかねないので、特に初対面の人にはもっとオブラートに包んだ表現をしたほうがよいかもしれない――。
ケンイチさんは「なるほど」と相づちをうち、メモを取りながら聞いてくれた。
でも、私は指摘をしながらふと思ってしまったのだ。定型発達の人間はつくづくどうでもよいことに忖度しているのだな、と。
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