「秀吉と遂に和睦」も家康が身の危険を感じたワケ 上洛を迫る秀吉に、死を覚悟して向かった家康

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同書には家康が、秀吉が母・大政所を岡崎まで人質として遣わせたことについて「そこまでには及びませんでしたのに、有難い」と言ったと記されている。

徳川家臣たちは、大政所の三河来訪を人質がきたと安心し、喜んだという。これで主君の身の安全が保証されたと思ったのだ。

だが、家康は気を抜いていなかったようで「もし私が腹を切ったら、大政所に腹を切らせよ。女房は助けて帰せ。『家康は女房を殺して腹を切った』と言われたなら、世間の聞こえもよくない。後々までの悪評となろうから、そのようなときは大政所を殺すのだ。女房に手を出してはならぬ」と井伊直政と大久保忠世に伝言したという。

家康が切腹していたら、どうなっていたのか

前述の家康の「私1人、腹を切って」という言葉は、断腸の想いで上洛し、秀吉に完全臣従するという意味合いではなく、場合によっては、秀吉から急に切腹を命じられて死ぬことも覚悟してのものだったのだ。

それは、自分1人が切腹すれば戦は回避され、民衆や諸侍が大きな苦しみを味わうことはないだろう、との家康の指導者としての覚悟であり矜持の吐露であった。

しかし、もし家康が上洛し切腹を命じられていたら、どうなっていただろう。三河武士は憤激し、大政所を殺す。秀吉もまたそれを怒り、結局は家康の想いも虚しく、戦になったのではないだろうか。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

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