「秀吉と遂に和睦」も家康が身の危険を感じたワケ 上洛を迫る秀吉に、死を覚悟して向かった家康

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天正13年(1585)11月29日の夜、近畿から東海・北陸を強い地震が襲ったのだ。天正地震と呼ばれるこの地震の規模は、マグニチュード7.9あるいは8.0とされ、畿内では建物が倒壊し、多数の死者が出た。

この地震で秀吉は出陣を延期したばかりか、武力衝突に発展させずに、家康を懐柔する作戦に切り替えた(家康の領国は被害をそれほど受けなかった)。

家康と秀吉を仲介する役割を担ったのが、秀吉方についていた織田信雄(織田信長の次男)であった。

天正14年(1586)1月27日、家康と信雄は岡崎で話し合い、家康は秀吉に和睦を請うことになる。

信濃国衆(例えば小笠原貞慶)の徳川からの離反、重臣・石川数正の出奔。そこに秀吉による討伐を受ければ、いずれはジリジリと負けていくことを、家康はよく見通していた。それゆえ、秀吉との和睦に舵を切ったのだ。

天正14年(1586)4月中旬、秀吉は妹・朝日姫を家康のもとに嫁がせることを決める(これにより、秀吉と家康は義兄弟の関係になるのである)。

ちなみに、秀吉は信州の真田昌幸らに「家康が人質を出し、『如何様にも秀吉の仰せに任せる』と願ったので赦免した」と伝えたようだが、それは秀吉が大げさに話していただけのようだ。実際には先に述べたように、秀吉は実の妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせているし、甲斐国・信濃国の支配は家康の裁量に任せられることになった。

突如怒り出した秀吉に、とまどう家康

さて家康は、朝日姫に嫁いでもらった御礼のため、家臣の天野康景を秀吉のもとに遣わした。

すると、秀吉が突如、怒り出したのだ。「儂(わし)の知らない家臣を派遣したな」という理由であった。

さらに「(家康の側近である)酒井忠次か、本多忠勝か、榊原康政のいずれかを派遣せよ」との要求もしてきたのだ。4月下旬に予定されていた朝日姫の輿入れも延期させてしまう。

無茶な怒りようであるが、家康も秀吉方がいろいろとやかましいことを言うので、手切れにしようと考えていたようだ。

そこにまたしても、織田信雄の仲介がやってきた。信雄の使者で重臣の土方雄良が「ここで秀吉と手切れしては、両者の仲をとり持った主君・信雄は面子を失ってしまう」と秀吉の言に従えと説得するのであった。

家康は信雄の説得に応じ、4月23日、本多忠勝を秀吉のもとに遣わした。これにより、朝日姫は無事に翌月14日に家康のもとに輿入れすることになった。

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