特に政治家たちは、どうやってプライバシーを守り、言論の自由を保証し、偽情報と戦い、大手テクノロジー企業の独占的な力の増大に対処するかを決めるのに苦労している。
これらは重大な問題だ。だが私たちは、他にも対処しなくてはいけない、もっと大きな包括的問題があると考えている。それは、社会をどう構成すれば、人間の純粋な注意を維持することができるか、という問題だ。
ノーベル賞受賞者のハーバート・サイモンが「豊富な情報は注意の貧困を生み出す」という言葉を書いたのが、ニクソンの騒音改革の頃だった。
静寂を尊ぶ社会のあり方
もちろん、騒音問題全体を規制したり法律で統制したりすることはできない。だから、もっと幅広く深いもの、すなわち静寂を尊ぶ社会を思い描くことにする。
たとえば、クエーカーのミーティングのロジックに倣う公の議論を行ったらどうなるか、想像してみる。そういう議論では、言葉が静寂を向上させると思えないかぎり、軽々しく発言がなされることはない。
私たちはさまざまな可能性を探る。もし議会や企業の重役会が純粋な注意を維持する重要性の真価を理解したなら、どうなるか?
気候変動や不平等のような複雑で困難な問題を解決するには、工学や解析や議論だけではなく、人々が本当に望んでいる未来について熟考してビジョンを持つための余地も必要であることに、もし社会が気づいたならどうなるか?
もし、間(ま)――「間にある」静かな空白の力を意味する日本語――の原理が、公の議論で活かされたならどうなるか?
これはみな、突拍子もない空想に聞こえるかもしれないが、これまでのやり方――たとえば、経済の「外部性」の計算方法や、新しい規制のコストと便益の評価法、賢明な公共投資の見定め方、難しい公の課題の検討の仕方――に妥当な変更を加えれば、前述のような変容を引き起こすのに役立つだろう。
(翻訳:柴田裕之)
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