「必ず後に続く」訓練で散った特攻仲間への「誓い」 待ってろ、明日には出撃命令が出るはずだ
昭和19年3月に卒業。生徒として最高の栄誉となる「航空総監賞」を受けた。卒業後、彼は後に特攻隊員として待機することになる目達原教育隊に配属され、ここでも卒業する時に「航空総監賞」を受けている。
彼はこの後、第七二振武隊の隊長となる佐藤睦男中尉の引きで、平壌(ピョンヤン)の朝鮮第一〇一部隊・第一三教育飛行隊に所属する。
佐藤隊は平壌の南で海に近い海州(ヘジュ)飛行場で九九式襲撃機を使って跳飛攻撃の訓練に明け暮れる。跳飛攻撃はこの段階では体当たりではなかった。
爆弾を超低空飛行で投下すると、水切りのように落下した爆弾が跳躍しながら敵艦船の吃水(きっすい)あたりに着弾するという攻撃方法だった。これは高度な操縦技術を要する上に、恐怖心を克服しなければならないため、過酷な訓練であった。
やがて航空機による体当たり攻撃が始まったことが荒木達の耳に入るようになった。心の隅で「自分達もやがては」と思うようになる。
「希望する意思があるか」
昭和20年2月、平壌に帰ると錬成飛行隊の中隊長から、
「自分達の部隊でも特攻隊を編制する」
との訓示があり、少年兵1人ひとりが中隊長室に呼び出され「希望する意思があるか」を確認された。1人残らず「希望する」と答えた。
彼らは内地に帰り、佐藤隊は3月に編制された69個隊の一つ、第七二振武隊となって待機した後、5月中旬、目達原へ出向いて来たのである。この時期の沖縄は梅雨で雨の日が多く、特攻機の出撃もできない状態が続いたので1週間ほど目達原で待機し、5月25日、鹿児島の万世飛行場へ出発した。
荒木達は万世飛行場で出撃前の記念写真を新聞記者に撮ってもらった。笑顔で子犬を抱いている少年飛行兵達の写ったその写真は、笑顔の奥に何があるかを考えさせるものだった。
万世飛行場は知覧飛行場の近くにあって、急遽、秘密裏に建設されたものだった。滑走路も十分整備されていなかったので、固定脚の飛行機しか離着陸できなかった。
第七二振武隊は5月27日に万世飛行場から出撃し、沖縄沖50キロで駆逐艦に突入した。