戦後78年、終戦時首相「鈴木貫太郎」知られざる功績 普通の文官だったら軍は収まらなかった

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ところが徳川家康は30歳で、兵8千をもって「自分の部屋に入ってきて、枕をけっていく乱暴者があるのに、黙って見ておるくらいならば、自分は弓矢を捨て、鎧を焼きすててしまうんだ。じっとしておれるか」と言う。

織田信長が非常に心配して、日本一の信玄では危ないから、決してとりあってはいけない。浜松を捨て岡崎まで逃げろとすすめた。そして平出監物ほか1名、合わせて2人を将として援兵をよこした。

家康は何と言われても、私には考えがあるから、御厚意は有難いが心配無用だと言って戦った戦です。むろん負けたが、立派な名誉ある負け方で、兵を引いて浜松に夕方入って来たのですが、信玄の方も、小荷駄が十分ないから兵を引いて行った。

家康の訓練の行き届き方は底知れない

浜松まで全軍引き上げ、家康は城中に入って、門を開き、ある侍大将の妻君が粥を出したのを満腹するまで食べて、ごうごうといびきをかいて熟睡した。そこへ山縣三郎兵衛昌景と馬場美濃守信房が馬をならべて門まで追って来たが、門が開いてもの静かなので止まり、中に何があるかわからない、伏兵があるだろうというので引き揚げて帰った。

帰ってから真田昌幸にこの話をしたところが、「あなたがたはしくじった。諸葛孔明が門を開いて琴を弾きながら、司馬仲達が追っかけてきたときにやった計略、そして仲達がおそれて逃げた話を覚えているか。もし中へ入っていたならば徳川公を虜にできたのに」と言われて、2人は「ああそうだったか」と言ったという軍談がある。

また馬場が、たんねんに戦場にある徳川方の死骸を調べてみると、北を向いているものはみなうつ伏せになっており、南を向いているものはみな仰むけになって倒れている。

突進したものばかりで、誰1人として逃げたものはない。全力をつくした証拠である。家康の訓練の行き届き方は底が知れんですと、馬場美濃守が信玄に言ったということになっている。鈴木大将はこの話が好きでしようがない。

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