戦後78年、終戦時首相「鈴木貫太郎」知られざる功績 普通の文官だったら軍は収まらなかった
もともとが将軍でして、戦をして敵に勝つのが務めで、またかつてはそのとおりであったのですが、あのような最高の舞台で、戦(第二次世界大戦)をやめる立場にたった。戦をやって勝利をうるのが将軍の一面であり、戦をやめるのが他の一面で、どちらが難しいかというと、場合によってはあとの方が難しいということができる。
しかも将軍は政治・外交は嫌いで、その方面には野心もなければ、興味もない純粋な立派な武人です。運命の皮肉がそうしてしまったのです。どうしてあれができたか。それは鈴木将軍が沈勇大胆な武将であったから、あのときにやめることが可能であり、日本の陸海の全軍が、若干の抵抗はあったにしても、ついてきたのだと信じて疑わない。
これは米内光政海軍大臣の力が非常にあずかっていたわけです。また陛下のことは申すまでもないことです。
しかし鈴木大将のあの貫禄があってこそ、押し切れたのです。あれがもし普通の文官の方があの地位にあったら、軍は収まらなかったろうと思う。
「あんな臆病者の勇気のないものが戦をやめろと言っても、降参するものか」と言ってやめるものではない。いわゆる「鬼鈴木」と言われ、勇気と胆勇では、日本一看板づきの人がこうだからというので、その押しと貫禄で、陛下の御決定までいったと思われ、実に歴史始まっての第一人者であると思う。
三方ケ原の戦が好きだった鈴木貫太郎
鈴木大将は何かを考えて、故意にそうあったのかどうかはわからないが、最後まで三方ケ原の戦のことが好きで、当時よく左近司政三中将あたりと、三方ケ原の戦のことを話しておられた。
三方ケ原の戦はむろん陸戦ですが、なぜに好きであったかということを、私も少し考えてみた。
三方ケ原の戦は徳川家康が30歳のときで、武田信玄の全盛時代、信玄の死ぬ半年前です。そのとき信玄の率いた軍勢は4万と言われているが、実際来たのは2万から3万の間で、信玄は脂ののったいわゆる日本一の信玄で、浜松の北にやって来た。
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