彼女は、父親の志を継ぎたいのである。戦時中に、父親が死亡して、あの商売をやめてしまったが、どうかして、自分の手で、もう一度開店して、曾て母親がそうしたように、自分がレジスターの前に坐って、店のサイハイを振ってみたいのである。東京の娘には、こういう執念はないかも知れないが、商人の都に生まれたおかげで、一見、温和そうな彼女の胸の底に、消しがたい火が燃えているのである。(獅子文六『七時間半』ちくま文庫、筑摩書房)
サヨ子の家は昔、大阪で食堂をひらいていた。しかし今は列車のウエイトレスとして働くサヨ子には、普通の縁談が降ってきている。自分の人生は、そんな普通の結婚生活では嫌だ。料理人として筋の良い男と結婚して、食堂をもう一度開店させたい。
そんな野望に燃えるサヨ子は、同僚の喜一に告白する。――が、喜一は喜一で、「まずは急行食堂のチーフ・コックになりたい」「大阪の小さいレストランの主人ではおさまれない」と感じてしまっている。さあ、二人の恋は、どうなる!?
女性自身にかなり意志があることが多い
……といった人生の交錯が、さまざまな形で描かれているのが『七時間半』なのである。いやはや、面白い。面白いし、女性自身にかなり意志があることが多い。サヨ子も喜一をただ好きなだけではなく、自分の将来設計ありきで好きになっているところが面白い。
女性の描き方。それは、獅子文六という作家が、現代においても尚読まれる理由のひとつではないだろうか。
実は獅子文六――彼は最近まで「忘れられた作家」であった。昭和の流行作家であったにもかかわらず、作品は軒並み絶版。しかし2013年、ちくま文庫から『コーヒーと恋愛』が復刊した。『コーヒーと恋愛』から、ふたたび獅子文六という作家の名が世に出るようになったのだ。そして『コーヒーと恋愛』という都会的でポップな物語は、意外に多くの人に読まれ、ほかの作品も復刊するようになったのである。
逆に今だからこそ、獅子文六の描く女性観の良さが、たくさんの人に届くのかもしれない。モエ子の恋愛模様も、サヨ子の野望も、今の女性にこそきっと響く。年齢を重ねてからの恋愛や、キャリアと結婚のバランスなんて、いかにも現代的なテーマではないか。
欧米のエッセンスを昭和の日本に持ち込み、都会的な香りで人気作家になった獅子文六。しかしむしろ今読むと、その女性の描き方や、男女の感覚は、「早すぎた」と言えるのかもしれない。今こそ読みたい獅子文六。ぜひ彼の作品に、触れてみてほしい。
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