本当に愚将?武田勝頼、妹を上杉に嫁がせた深い訳 一睡の夢に消えた甲州・相模・越後の「真・三国同盟」
無事に京都を占領できたら、謙信は進撃を停止するだろう。そして「二条御所に足利義昭公をお迎えする」と宣言して、毛利家にいる将軍の帰洛を求めるに違いない。
信長が降伏するか自害するかはわからないが、狭量な義昭が許すはずもないのは見えているので、華々しく散る道を選ぶのではなかろうか。その後謙信と義昭は、天下再興と称して、幕政の立て直しを図るであろう。
しかし、謙信は義昭が信玄の挙兵に乗って、信長と争った時は、盟友・信長に味方して将軍と距離を置いた。佞臣(ねいしん)に乗せられる将軍の器量には首を傾げる思いがあったのだ。
差し迫る死を前にして、果たせぬ夢に未練
かつて謙信は義昭の兄である足利義輝にも「(将軍様の)御側近には、その身に相応しくない不義の方もたくさんいます」と苦言を申し上げたことがある(『上越市史』193号文書)。
こんな直情型の謙信と、非寛容な義昭が果たして上手くやっていけるだろうか。この点、微妙に疑問である。
それでも計画が万事順調にいけば、50歳を過ぎた謙信は折を見て、かねてからの願いどおり隠居したことだろう。その際、上杉景勝は越後の大名として菊姫と在京。上杉景虎は上杉憲政と上野へ移り、そこで新たな関東管領として上杉・武田・北条の関係を調整。そして謙信当人は越後に帰り、景虎の嫡男・道満丸を膝に抱きながら、読経と座禅の日々を過ごす──。
こうした未来を思い描いていたのではないだろうか。
史実の謙信は、天正6(1578)年3月に倒れた。差し迫る死を前にして、果たせぬ夢に未練を覚え、「四十九年一睡夢、一期栄華一盃酒」と、辞世の詩を詠み残したのかもしれない。
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