本当に愚将?武田勝頼、妹を上杉に嫁がせた深い訳 一睡の夢に消えた甲州・相模・越後の「真・三国同盟」

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謙信は北条家と断交して久しいが、武田家と北条家は親密な同盟関係にある。武田と和すれば、北条とも交渉の余地が生まれる。上杉家には北条出身の景虎もいるのだ。

これらを複合的に見るならば、謙信が武田家に景勝と菊姫の婚姻を打診していたとしても不自然ではない。むしろそう考えることで、勝頼の偏った動きに相応の合理性があったものと理解することもできる。

つまり景勝と菊姫の婚姻は、謙信生前からの既定路線で、謙信亡き後も武田家中では、甲相越の三国同盟を理想のシナリオとして認めていたと仮定できるのである。それならば、景勝の使者を武田信豊が受け入れたこと、武田が上杉に過剰な肩入れをしていたこと、また菊姫の輿入れが1年以上延長することになっても破綻しなかったことが理解できてくる。

越後・甲斐・相模の軍事同盟を考えていた?

これらの推測は、実はある文献にある記述に基づいている。

近世前期に成立した『管窺武鑑(かんきぶかん)』という軍記がある。謙信・景勝家臣の息子が書いたもので、その内容は実否不明の伝聞や誤記も多いが、元禄ごろに増産された軍記類より参考となるもので、また不正確な情報についても、なぜそうした記録が書き残されたのかを考える余地がある。この第1巻に、次の記述がある。

【意訳】天正5(1577)年、上杉謙信公は越前北庄(きたのしょう)まで焼き払い、来年、天下へ遠征するので計画を打ち合わせする時、謙信公より勝頼公との和睦が進められ、翌(1578)年正月に話が整い、勝頼の妹を景勝の室にすることが約束された。
その3月謙信公が逝去された後、景虎殿と景勝の間に抗争が起こったので(縁談は)延引し、その翌7(1579)年7月に油川(あぶらかわ)殿の娘・御菊御料人(ごりょうにん/仁科五郎殿と同母)が越後へ御輿入れとなった
【原文】天正五年輝虎公越前北庄まで焼詰め、来年貴下発向御内試の時、又輝虎公より勝頼公への繕あつて、翌年正月相調ひ、勝頼の妹を景勝の室にと約束、其三月謙信公逝去の後、三郎殿と景勝取合起り候故延引し、其翌年天正七卯七月、油川殿腹の御菊御料人[仁科五郎殿と一腹]越後へ御輿入なり。

この記述は、独自の情報源に取材した記録として一考の余地がある。もしこのとおり景勝と菊姫の縁談が謙信の意向によるものなら、このとき上杉謙信が何を考えていたのかを想像することができる。

おそらくこの婚姻をもって、謙信は武田との軍事同盟を締結して、北条との和睦を取り持ってもらい、「真・三国同盟」とも呼ぶべき越後・甲斐・相模の軍事同盟を形成し、関東の争乱を落ち着けて、一挙に上洛するつもりでいたのだろう。

天正3(1575)年の謙信書状で「越・甲可被遂御和内々落着」と記されているように、謙信と勝頼は秘密裏に講和していた(『上越市史』1272号文書)。しかも勝頼はほどなくして氏政の妹を娶っており、「三和」の道が開けていた。武田軍と上杉軍が共同して西上作戦を実行すれば、織田政権の瓦解も起こりうる。

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